もしも世界がひとつの物差しなら
誰に読ませるわけでもない文章を、ネットにあげることに何の意味があるだろう。今までずっとそう思っていた。
だけど最近、それが自分の表現の足枷になっている気がして、改めて「本当にそうかな?」と考え直してみた。
確かにネット上は不特定多数の人の目に触れる(可能性がある)媒体だから、ここを訪れた誰かのために書かれていないといけない、そんな気がしてた。だけど、「誰かに読んでもらうことをテキストに求める」のは、自分がやりたかったことに照らし合わせると、構造的に問題がある、と思った。
誰かに読んでもらうことをテキストに求めると、そのテキストは誰の目にも触れる前から「何者か」でなくちゃいけない。
読み手に新しい情報を与えているか。
誰もやっていない、ユニークなことをかけているか。
誰が見ても恥ずかしくないものを書けているか。
そうして演じるべき「何者か」を見定めたうえで、その通りに「当てにいく」。そう、だれかに読んでもらおうという気持ちに応えるには、「当てにいく」必要があったのだ。目標を見据えて組み立てる、デザイン的な文章。
だけど、誰かに言われるでもなく続けているこのnoteは、そもそも「自分の表現したいという気持ち」に向き合うことから始まったものだった。
そんな中で、「何者か」であるためにそぎ落とされた感情に、僕はずっともどかしさを感じていた。
これは〇〇に似てる、これはもう既にだれかが同じことを言っていた、多分明日には、恥ずかしくなって消しちゃうんだろうな、とか。
でもそれでもいいんじゃないかな。だって、noteは「自分のため」にやってるんだから。
誰かが既にやっているかもしれない。誰かが見て、あるいは自分があとから読み返して、恥ずかしくなってしまうようなことを書いているかもしれない。 だけど、その言葉は、他の誰でもなく、過去・未来の自分のためでもなく、今ここを生きる自分にとって必要な言葉だ。
別に何者でもなくたっていい。書きたいときに、書きたい気持ちを素直に表現すればいい。
けど、それなら誰にも見せない紙のノートにでも書けばいい?
いや、僕は「誰かにみられている」ということこそが大事だと思う。
誤解の無いように付け加えると、「だれかに読ませる」ことと「だれかにみられる」ことは違う。「だれかに読ませる文章」は、先に述べた通り読み手のニーズや新規性を考えて、それに応えられるよう当てにいく文章だ。「だれかにみられる」ことは、特定の種類の文章を指すのではなく、まあ、見られる場所にある、という"状態"のことだ。
で、そういう状態において初めて、僕は文章を書くときに、ちゃんと意味の通った文章になっているかを気にする。万が一、だれかが読んだとき「ああ、なるほどね」と理解できるものになっているかどうか。
逆に紙のノートに書くときはそんなことを気にしない。だってものすごく疲れちゃうから。誰かに伝わる形で文章を組み立てるのって、人が読める字で文字を書くようなもの。紙のノートならわざわざそうしない。自分にさえわかればいい。
自分の気持ちに素直に、そういう文章を紡ぐ場所が僕には必要だった。別に当てにいかなくていい、ゆくゆく名前がつかないものだっていい。
端点から4.5cmのところには、名前がつかない。