能登のこと
先日能登半島の珠洲までボランティア活動に行ってきました。1月に地震があり、その後水害と2度にわたっての災害をメディアを通して知ってはいたのですが、どのような状況かもわからず金沢美術工芸大学関連のメンバーが珠洲に行くというので、便乗させてもらって行ってきたのであった。
京都での仕事を終えて、行きは金沢まで電車で向かうことに。先発隊は車で向かっていた。準備としてはボランティア保険に入っておいたこととどのような状況かわからないので、寝袋や水など、いろいろ車に乗せておいたくらいだ。
車で行く際には、災害ボランティア車両の高速道路等有料道路の無料措置というのがあるので、ぜひ調べて行ってほしい。被災地での災害ボランティア活動に使用する車両については、「災害派遣等従事車両証明書」を高速道路等有料道路の料金所で提出することで、通行料金の無料措置が講じられる。お金がかかるからなかなかいけないと思っているのであれば、高速料金に関しては無料になるので。
金沢で一泊。その日の夜に石川県で地震があった。沖縄に滞在した次の日に首里城の火災があり、テレビですごくニュースをやっていたことを思い出した。
金沢からは、のと里山海道というところを通って珠洲へと向かうのだが、ここがかなり地震の影響を受けていた。ところどころでまだまだ復旧作業が進められたおり、道の断絶や欠落した部分などがまだまだ見受けられた。速度制限は40キロに抑えられており、看板なども塗りつぶされていた。繋がっていない道もたくさんあるのだろう。サービスエリアなども閉業などもあり、まだまだ閑散としていた。1月からの復旧でまだまだという状況に正直驚いた。道は繋がっている、でもまだまだ先の長い話のように思えた。
街道を抜けて珠洲へと向かう途中の景色では、山が崩れていたり、遠くの方の家が潰れているのが見えたりした。途中で寄ったゴーゴーカレーでは、お昼時ということもあり、作業員の方が多く見受けられた。復旧活動のための作業員だろうか。
珠洲の街並みはというと、街中に潰れた家がまだまだ放置されていた。電柱や信号機が斜めになっていて、地盤がぐしゃぐしゃになっているように見えた。綺麗に立っている家もよく見ると斜めだったり、地面が隆起して基礎の部分を壊したりしているものが多く、そういう家にはすでに誰も住んではいなそうだった。
珠洲では、あみだ湯というところでお世話になった。あみだ湯を切り盛りしているのは新谷健太(しんけん)さんで、金沢美術工芸大学の油絵出身でアーティストランスペース「芸宿」の運営にも携わり、その後珠洲へと移住したのだった。
海浜あみだ湯|珠洲市
https://x.com/amidayu_suzu
https://www.instagram.com/amidayu.suzu
着いた日は、着いた時間も少し遅かったこともあり、風呂の掃除から始まった。水木以外は営業を行っているらしい。多くの方がこのお風呂に入っていることを考えるといろいろと考えてしまった。日があるうちに少し街を歩いて、18時になるとすっかり当たりも暗くなった。もう冬の手前というか、京都や金沢なんかよりもずっと寒かった。
夜は集まっているボランティアたちでご飯を食べる。いろんな方が集まっているようだった。インドの大使館で働いていて、帰ってきて今は失業保険受給中で、次の職を探している間の人や、消防士になる前で時間のある方などなど、この時期に動けるということを考えると大学生や仕事の合間の人というふうに限られていくよなと思ったり。
夕飯はめった汁にして、皆でつつく。あみだ湯では、皆が思い思いの場所で雑魚寝するような形でボランティアに勤しんでいた。自分のスペースを自分で作る。街の人も訪ねてくるし、いろんな人が出たり入ったりしてどこか交差点のような気もしたりした。プライベート空間はない。
寒いし、やることもないので、12時には就寝である。時間の流れが全然違う。
次の日は、朝から大谷町というエリアまで泥かきに。とても寒い日で、もっと暖かい作業着を持ってくればよかったと後悔した。道中山が崩れている場所などもたくさん見た。大きな道などは行政が泥かきをしてくれるが個人の敷地などは泥かきをしてくれるわけではないので、そういた場所の泥かきの依頼が来るのだそうだ。
まずは家の前から。泥といっても20センチ程度の石がごろごろと入っていて、スコップが全然入っていかない。石を出しながらの作業はすごく大変だった。少しすると家の横の裏へと続く道の泥かきが始まった。ここは一輪車が入らないので、全部人力で書き出す。泥は80センチは積もってるだろうか。これは一人だったら諦めてしまうような作業だった。
途中お昼は避難所の近くで食べた。避難所に入ることはなかったが、そこには様々な情報が壁に貼られていて、支援物資などがいろいろ届いている状況が見えた。企業などが技術提供したりもしているようだった。
午後も泥かき。10人近くでやっても半分も終わらなかった。これからもっと寒くなる。そんな中でこんな泥かきがずっと続くと思うと、やはり考えてしまった。15時には終わりにして、車に乗ってあみだ湯に戻った。帰りはぐったり。寒さと泥かきの大変さに1日でヘトヘトになった。ボランティア活動に来て具合が悪くなったら悪いなと思ったし、適度に休憩を取らないといけないとも思った。若い人に合わせて頑張ると自分の体力がもたないが、頑張りたいが自分のペースを守ろうと思ったりもした。
帰るとまた晩御飯の準備。街の人が来ていてお酒を飲みながら、いろいろ話している中で、ボランティアが来ているが街の人は何もやらんと怒っていた。みんなは何をしているかって言えばパチンコに行っているんだそうだ。それでもひっきりなしにボランティアは来る。だからそれに頼り切っているんだとか。これも複雑な気持ちだった。自分も余裕があるわけではない。でも時間があるから来れている。それはそうなのだ。当事者でもない。そういうこともある。もし自分が当事者だったら、泥かきできるだろうか。そんなことを考えた。金沢の方に移住した人も多いらしい。
次の日にはもう帰るので、その日は刺身とか粕汁を作って食べた。すごく美味しかった。奈良漬をシャキシャキの大根で挟むと美味しいとか、珠洲の塩は濃厚でうまいとか。そんな話をみんなでして、ご飯ができると皆でご飯を囲んだ。そして半分だけ湯船を入れて亀みたいに風呂に入った。労働の後のお風呂はやっぱり最高であった。
ふっと災害ユートピアという言葉が浮かんできた。ふっとある学生に何気なく聞かれた、良いことをやっているという意識はあるんですか?という質問を思い出した。なんだろうか。胸がザワザワした。
翌朝にはもう出発。あっという間であった。この何日かで見えたことは
ほんの断片の断片にしか過ぎないかもしれない。それでもまだまだ復旧は終わっていないということはすぐにわかったし、地面の下のことを考えると復旧するんだろうかという想いもある。
一緒に行ったメンバーとの帰りの車で。復旧、復興ということを追い求めなくても良いのかもしれないというようなことを話したりもした。良い終わらせ方を考えないと、疲弊する人もいるだろう。
後1ヶ月もすればもっと寒くなって雪が降る。そうすればまた重みで潰れる家があるかもしれない。通れなくなる道もいっぱいある。そして地震から1年になる。
帰ってきたら、今度は沖縄で水害である。日本という国にいる以上、しょうがないことだが、災害への心得は日本国民にとってはとても重要な教育なのではないかとも思ったり。
さて、これから自分は何ができるだろうか。そんなことを考えた。答えはまだない。夜の空の星も海も綺麗だったのはしっかりと覚えている。
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