「普通」とは
人間ってすごくうまくできている。
教えられもしないのに、自分で周りにいる人たちの平均値を出すことができる。
しかし、例えば「普通」に見える人にスポットを当てて付き合ってみると、実際には変わってるなと思う部分が出てくるものである。
しかしどうだろう、明らかに変わっている人を目の前にしてあなたがその人から得る印象はきっと、「普通」じゃない、すなわち変わっている人だなと思うのではないだろうか。
小さい頃から、いつ何時も変わっていると言われてきた俺にとって、「普通」とは追い続けなければいけない存在だった。それは今も変わらない。
あんな人になりたい、あの子の兄弟になりたい、あのママの子どもになりたい、ここのお家に住みたい。
何度小さい頃から思ったことか。
それは自分が毎日見ている世界が、いかにいつも同じに見えていて、代わり映えのない単調なものを自分の目に写そうとしているかを表しているといえる。
言い換えれば、自分が単調な毎日を過ごし、それにしがみつく習性があることを自覚し得る能力がなかったために、全てのものがカルチャーショックとして映るのである。
それともう一つは、自分の家族があまりにも子ども時代の環境の中で浮いていたということもあるだろう。
子どもにとって両親は正義であり、常識である。家族という社会を学び、それが段々と学校などを通じて外に社会が広がっていくのである。その間に子どもは反抗期を迎える。
そもそも病院でアスペルガーであると診断された俺にとって、違いをうまく整理することは困難極まることである。
使い分けができずそのまま受け取りそのまま表現する俺が、「普通」と比較して、社会が違うのか、自分が違うのか、家族が違うのかを識別することが最近まで難しかったし、きっとまだその整理の途上にある。
「普通」な人はいないんだろう。
でも俺は「普通」じゃない。どこかで人と違うし、それが生きづらさなのかもしれない。