「鑑賞」という行為はクリエイティブなのかということについて
自分はM-1グランプリを毎年見る人間なのだが、2001~10年の休止前と、休止後の2015年以降のM-1には大きな違いがある。それは、SNS上に感想が「書かれる」ようになったということだ。
「お笑いファン」と呼ばれる層にはTwitterユーザーが多く、放送中から放送終了後には膨大な量の感想ツイートが溢れる。面白かった/面白くなかった、という感想は「文字」としてタイムライン上に並ぶ。
それだけでなく、そのツイートは、収集・編集され、Yahoo!やLINEのニュースとしてお笑いファン以外の層にも送り届けられる。
これは休止前のM-1には無かったことだ。
最近、「鑑賞」という行為はクリエイティブなのかということについて、ずっと考えている。感想を誰でも気軽に発信できるようになった一方で、コンテンツの受け取り側の創造性が、落ちている気がする。気のせいなのだろうか。
昔読んだ平岡正明の落語評論に、志ん朝師匠の代演に談志師匠が上がった日のことが取り上げられていた。選ばれた演目は「金玉医者」で、その演出には枝雀の影が感じられる。
平岡は談志の「金玉医者」の中に、志ん朝の「代脈」と枝雀の「夏の医者」を重ね、その光景を「時代の焦点」と捉える。そしてエッセイは、唐突に、数日後のアルカイダテロ事件に結びつけられ、文章は終わる。
冷ややかに捉えれば、平岡の、志ん朝→談志→枝雀→アルカイダ、という視点は、妄想的で「正しくない」。ただ、この視点は間違いなく「面白い」。それは知識や体験が総動員されていて、「真剣」に見ているからだ。
SNSによるメディア環境の変化によって、鑑賞の本質が「共感」へと墜ちてしまった。
お笑いだけに限らず、言葉にならない(=ツイートできない)感情が生まれることを、作り手と受け手の両方が、避ける傾向が生まれてしまった。
良い面があるのは間違いないし、元に戻るなんてこともありえない。ただこの風潮は消費社会的だし、とてもつまらないように思う。
噛み切れずに口の中に残るタネのようなものがないと、次の文化の芽は生まれない。未来を消費してしまっているのは、すごくもったいなく感じる。
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