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労働ですら(エッセイ)

こうしてわれわれは労働そのものが消費されるという逆説的な段階に到達する。自由時間より労働の方が好まれる以上、また労働に関する欲求と充足の「ノイローゼ的」性格が顕著であり、労働量の増大が威信の指標となる限りにおいて、われわれは労働が消費される現場に居合わせることになる。もっとも、これは当然のことだ。われわれはすべてが消費の対象となることを知っているのだから。
ボードリヤール『消費社会の神話と構造』

我々は、労働ですら消費の対象にする社会に生きている。仕事にやりがいを求め、憧れの職業を目指して競争する。その虚しさは何なのだろう。

現代は、すべてのものが過剰な社会で、私という存在もそのひとつだ。社会は私がいなくても充分に回る。私にできることといえば、贅沢することくらいしかないのかもしれない。

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