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「批評」対「共感」、「お笑い語り」

議論vs非議論、というようなことを昨日また書いたら、今日速水健朗さんの記事を遭遇した。


ここでは議論vs非議論という対立軸は、「批評」対「共感」として表現され、さらにそれは「解釈」対「経験」の対立だと論じられている。

経験則というのは個体差や誤りも多い。感情は流されやすい。個々人の経験を精査・検証し、普遍的で再現可能なものにしたのが科学であり、人文知だ。そしてその精査の作業こそ、批評であり議論というものである。そうやってこれまで社会は発展してきた。

なので議論や批評を批判するということは、社会全体の前進が妨げられるということにつながるのであり、対処を考えないと、とずっと思っている。



私は昔お笑い芸人を志していたことのある人間なので、何を考えるにも頭の片隅にお笑いというものがある。で、この「批評」対「共感」の対立の中で興味深く思うのは、「M-1グランプリ」という存在だ。

「M-1グランプリ」とは、毎年12月に行われる若手漫才師の大会のことを指す。テレビ視聴率が20%にも達する国民的行事となった。日本のお笑い文化における一大行事であるといえる。

そもそも日本のお笑いカルチャーは縦社会的風土が強く、ヤンキーカルチャーに親和性がある。ということは批評に馴染まない世界と思われてきた。実際、お笑いは日本のポップカルチャーの中心的地位にいるにもかかわらず、その批評的分析は他ジャンルより格段に少ない。

にもかかわらず、ここ数年「M-1グランプリ」後には、YahooニュースやYouTube等に批評的な記事が多く並ぶようになった。お笑いを「分析」し、「語る」営みが、肯定される数少ない「例外」なのだ。

ちなみに「批評的」な記事という言葉を用いたのは、それが批評ではないからだ。そもそも笑いの好みは人それぞれ違いが大きく、批評に向きづらい。必然的にそれらの記事は、批評には及ばない「感想戦」の様相を呈する。実際、ネタに批判的な記事は少なく、全芸人面白かったですが、という枕詞が付くことが多い。

非批評的なカルチャーの中に、批評的なものが生まれる。この事態はどういうことなのだろう。

※ただ正確にいえば、M-1グランプリをきっかけに、「お笑い語り」のコンテンツは爆発的に増えたのは付け加えておく

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