『惑星ザムザ』の感想など
どうしたらシステムの外に抜け出せるか?、というのが、ポスト構造主義、現代思想と呼ばれるような20世紀後半の哲学の、おおまかな主題だと思っている。インターネットの発達以降、人々の相互監視のまなざしは一気につよくなった。各人が当然にカメラを備え、内面はSNSによって可視化される。ポピュリズムの台頭は個人の発信を萎縮させ、社会全体が保守化・道徳化に傾いている。どうしたら、このシステムの檻から抜け出せるのだろう?どうすれば私たちは、この時代に自由を得られるのだろうか?
たとえば先日より炎上騒動に巻き込まれている社会学者の宮台真司は、その逃走線のひとつとして「性愛」を挙げる。個人のフュージョン的な交わりを通じて、社会の外のある享楽を目指される。けれども先日の炎上騒動では、その限界が露呈されたように思う。内容の正しさはともかく、いくら"言葉"で"論理的"に説明されても、受け取り手の理解力・想像力が欠如していれば届かない。それどころか、誤解はキャンセルカルチャーを導き、当人の発言権それ自体が危険に晒される。
話が通じないという現象自体が、暴力的な危険性を帯び、社会の保守化を加速させる。これまで実現できていた、言論を通じた自由の獲得という通路が、力を失いつつある。社会の息苦しさが増していく。
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なんとなくそんなことを考えながら、先日『惑星ザムザ』という現代アートの展覧会を見に行った。会場は神楽坂にある製本工場の跡地で、廃ビル全体を3F~6F→2F→1Fと巡る構成だった。各フロアには工場のプレートやダクトなどが残っており、窓もそのままで外光が差し込む(仕事終わりの夕刻~夜の時間帯に訪れたためか、会場内は暗さが印象的だった)。なかには、廃材を使用した作品や、どこまでが作品か判然としない部屋もあった。
会場は、"意味が見出される以前のよくわからないもの(=テキスト以前の物質)"と、"意味を使い尽くされたもの(=廃墟)"のみで構成されている。現実的な説明は極力排除されているように見え、だから「よくわからない」。けれど、各作品や空間には確かに説得力があって、私たち観客の感性をつよく刺激してくる。だからそこは、惑星、としか言えないような、異世界そのものだった。そこは、「懐かしい」よりももっと昔の感覚というか、会場内は暗くて怖い感じもするのだけれど、羊水のなかにいるような心地よさに包まれていて、「もっといたい」と強く思う空間だった。よく眠れた日の朝のように会場を後にした。
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これまで共通言語で語られていたような希望はもう力を失ってしまったけれど、たとえば花が枯れたり、日が落ちたりするような変化にも、異世界への通路は見出すことができる。別に心配することなんてない。
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