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働いて何かを達成できているわけではないけれど

#はたらいて笑顔になった瞬間 、というハッシュタグがあった。人材系のパーソルが主催となり、投稿記事のコンテストを行っている。以前転職のとき、自分もパーソルにお世話になったことを思い出した。

いまの社会では、仕事と自己実現が結びつけられている。なりたい自分像というものがあり、それに近づく手段として仕事が存在する。カネを稼ぐためだけに取り組む仕事は卑しく、仕事を通じて他人や社会に必要とされることが本来の歓びなのですよ、と喧伝されている。

あらためて自分の周りを見渡せば、勝ち組はおよそ2パターンに分類できる。ひとつは自分のやりたいことを仕事にしている人たち。昔からの夢を叶えたり、インフルエンサー的な振る舞いをしているタイプ。もうひとつは、手堅く大きな収入を得ているタイプ。ちなみに私の周りには公務員が多い。

とにかく干渉されず、粛々と一人暮らしに勤しみたい私は、カネのために働く卑しい人間だ。夢を追って貧しい生活に耐えることとも、大きな組織に属して人間関係の沼に溺れることとも、距離を置くようにしている。傍から見れば、ぱっとしない人間なのだろう。

今年に入って見に行った、アメリカの国民画家、グランマ・モーゼスの回顧展を思い出す。アメリカの片田舎で生涯を過ごした彼女の生き方は、労働そのものだった。生活に必要なものはすべて自分たちで作る。畑や農場の世話にいそしむ。秋には村人総出で作物を収穫し、ハロウィンやクリスマスを祝う。たくさんの子供たちを育てる。晩年、彼女はその幸福を絵に残した。

なぜ仕事をするのか、と就活では頻繁に質問されるけれど、人生における仕事とは目的論で語れるような一元的なものではない。いまの社会では、さも将来に輝かしい目標が存在し、その過程として現在の価値が逆説的に見出されるけれど、人生に流れる時間とはそういう類いのものではない。

働いて何かを達成できているわけではないけれど、自分はそこそこ幸福だと思っている。もっとそうあるべきだとも思っている。

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