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ゆらゆら帝国と神経症
90年代に最盛期を迎えた日本のロック音楽に関して重要なことのひとつは、それは背景に、社会の神経症的な感性、ようはイライラ感を持っていたということだ。時代全体が不安で神経質に傾いていたことが、ロックンロールのカッコ良さに結びついている。ギターには殺意が宿っていて、リスナーは熱狂した。バンドも観客も狂気的だった。
ロックバンドは、存在自体が矛盾している。ヒリヒリとした佇まいでデビューしたバンドも、その魅力が人気を呼び寄せるうちに、サウンドからイライラ感が消えていく。ソーダから炭酸が抜けていくかのように、カッコ良さが損なわれていく。
事実、伝説的な多くのバンドは、形骸的なサウンドに陥るか、もしくは陥りそうになる前の段階で、自ら解散の道を選んでいった。ミッシェルにしても、ナンバーガールにしても。
そんな中で唯一の例外は、ゆらゆら帝国だ。自閉症的なイライラ感を湛えてデビューした彼らは、例外的に、その神経質に身体を馴化させていった。炭酸が、炭酸として水に溶けていく、その静けさ。その結晶が、『空洞です』全体に宿る、「なんでもない」感じだ。
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そしてそれは、日本という社会の来た道でもある。90年代という異様な幻想。松本人志の狂気が炸裂していた時代。その矛盾はなにも解消されないまま、国民はただ馴致していくしかなかった。
われわれは、何かに我慢しながら、何に我慢しているのかすらわからなくなった。そしてストレスにただ馴れた果てに、いまがある。