見出し画像

『ミステリと言う勿れ』を見て一番イヤだったこと

『ミステリと言う勿れ』を見て一番イヤだったことのは【ドラマ内の感動を仕立て上げるために、現実のいろんな当事者の気持ちがないがしろにされている】ということだ。

例えばヒロインのライカは幼少期の虐待によって解離性同一性障害を患うという設定だけれど、『自省録』を使ったキャラ付けによって、ただの風変わりな人物造形に堕してしまった。難病の患者が登場する、いわゆる[病気モノ]のドラマとして作品を捉えれば、解離性同一性障害という症状の扱いはとても軽く、ネタ的に消費しているように見える。少なくとも、現実の患者やその家族が作品を見たときに、救われるような描き方ではなかった。

作品には多くの「虐待サバイバー」が登場する。しかし虐待加害者である両親の描写は極端に少ない。親側を取り巻く社会状況や環境といった問題点は切り捨てられ、原因はすべて属人的なものとして処理される。これは「虐待サバイバー」という弱者に寄り添うために、両親を悪人として断罪する手つきに他ならない。想像力の欠如だ。

また、「いじめ加害者にこそカウンセリングを受けさせるべきだ」という、モノ申す的な提言にも、やはり想像力の欠如を感じる。この台詞を聞いて、現在カウンセリングを受けている患者はどう感じるのだろうか。カウンセリングはあくまで医療行為であり、受診は自身の判断で行われるべきものだ。こんな当たり前の指摘すら想定できなかったのか。

この作品では「弱者に寄り添う」トーンを作り出すために、寄り添える範囲の弱者のみを描いている。例えば、養育者の孤立・社会全体の貧困といった、虐待の周辺に想定されるような問題群は、作品内から徹底して排除されている。社会の矛盾を指摘しているように見えつつも、実際にはかわいそうな匂いのする子供に同調するだけで、社会全体を好転させる気などまるでない。

それは、障害者の一側面のみに光を当てて感動を誘発する、24時間テレビ的な気持ち悪さに似ている。全体に貫かれる優しさが浅く、ポーズに過ぎない。要するに偽善臭いのだ。



エンターテインメントは、好きな人だけ見ればいいというのは百も承知だ。イヤなら見なければよいという考え方も充分に判る。満足している人の気分を否定するつもりもない。
ただ、社会問題を取り扱う、「社会派」としての側面が作品にあるのであれば、そのメッセージに応えることは越権行為ではないだろう。

なんだかんだ期待して最終話まで見ていたので、終了後のがっかり感が非常に大きかった。本当は色々と言いたいことは他にもあるけれど、この範囲に絞ることにする。この話題はココまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?