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大喜利的なもの

ときどき大喜利というものの難しさについて思うことがある。大喜利はとても難しい。一見すると、質問と回答という二要素のみの、シンプルで簡単なものに見える。けれど実際にやってみると、それは著しく難しく、つかみどころのないものだ。

大喜利の回答の正しさが測られる「ウケ」は、お題と回答という二要素のみで決まるわけではない。回答のトーンや言葉遣いといった内容的要素だけでなく、回答者のキャラクターや知名度、観客の客層や社会情勢、回答同士の順番など、さまざまな要因に影響を受ける。ウケは、無限に存在する変数から複雑な影響を受けてから、回答者の前に現れる。

そのため、大喜利には絶対的な攻略法というものが存在しない。あるのは属人的で、個別の解法のみだ。大喜利の技術は、なんとなく「こういう場合にはこういう感じ」という経験知によって構成されている。そして(さらに皮肉なことに)、その「こういう感じ」という技術でさえ、酷使されればマンネリ化し、面白さを失っていくことになる。何かを掴んだとおもったら、指の間をすり抜けていく。このつかみどころのなさこそ、大喜利の難しさの核だ。(※)



狭義の大喜利はお笑い界にしか存在しないけれど、広義の「大喜利」は、さまざまに存在しているように思う。それは、何かを発表するようなクリエイティブと言われる領域だけでなく、友達との会話や、物を選んだりするような、日常的な領域にも潜んでいる。

何かを「選択する」場面に遭遇したときに、その状況を広義の大喜利として読み替えることは、わたしたちに新しい視座をもたらすように思う。



(※補足)
テレビショーとして大喜利を企画する場合には、大喜利の変数を減らしていく方針が採られる。たとえば長寿番組である「笑点」では、回答者をレギュラー化し、キャラクターをゆっくりと浸透させることに重きがおかれる。そして、どのお題に対してもそのキャラクターに則った内容の回答が提示されることによって、一種の「定番」として観客に受け入れられる。そこにあるのは、刺激的な面白さとは異なる、いわば「マンネリの快楽」だ。

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