「池内晶子 あるいは、地のちからをあつめて」
「池内晶子 あるいは、地のちからをあつめて」という展示に行く。赤い絹糸を用いた作品展だった。
作品は大きく3点。見学順に、①部屋の中央に漏斗のように編まれた糸が浮かび、一本の糸がその真下から展示室全体に螺旋状に糸がびっしりと置かれている作品。②二つ目は北と南を繋いだ糸から一本の細い糸が垂らされ、ライトアップされているもの(これのみ糸は白色)。③西と東の壁を結んだ無数の糸が平行に垂らされている作品。
その他、日々書きためているというメモ書きのような作品集と、平面作品が少々。
糸は細く、肉眼で確認できない部分も多い。フローリングの色とも近く、見づらい部分も多い。糸はしっかりと固定されているわけでもなく、風で簡単に飛んでしまいそうではかない。自然と観客は目をこらし、感性が澄まされていく。
ちょうど見に行った日は最終日に近くで、作者のパフォーマンスに遭遇した。③と①の作品を、目の前で改変するというものだった。
まず③の作品では、左右につたっている糸の中央あたりが一本ずつ切られていく。切られた糸は左右にだらりと垂れ下がり、作家の後ろには道が開けていく。つながりの象徴としての糸が切られ、その跡に「道」ができるという事実には、大きな皮肉を感じた。
①では、螺旋のさらに外側を回りながら作家が糸巻きに糸を巻き付けていくというもの。最初は1本で巻かれている糸が、次第に絡まった塊になって糸巻きに到達する。最終的に絡まった糸は網状になり糸巻きにむりやり巻かれ、単なる糸の塊として展示室の端に雑然と棄てられる。
糸には象徴性を持たせるため、方角という記号が付与される。それは世界全体を表彰しているようにも見えるし、個人的な経験のようにも読み取れる。世界の構造が素描されているような感覚に襲われる。
個人的に印象的だったのは漏斗のモチーフで、①のほかに版画・デッサンにもあった。重層として存在しているように認識できる世界も、ほんとうはひとつに収斂しているのかもしれない。
「収斂」という概念は、現代の社会にも、個人にも適用できるように感じる(たとえ帝国主義的なものから距離をとったとしても。)それは現実の何かを言い表すのに、必要なものであると感じた。
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