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裏話の話

去年引っ越しをしてから、テレビを繋いでいない。部屋が狭いので、現在はテレビ線を繋いでいない状態で、ファイヤースティックのみ挿された状態で、ロフトに鎮座している。どうしても観たい番組はスマホアプリのTVerで見ている。ひとむかし前のバラエティオタクだったころを知る友人には、ちょっとビックリする話なのかもしれない。

最近、バラエティで裏話を話す企画が多くなったように感じる。あのとき(M-1とか)のエピソード、最近の悩み、互いの評価、etc・・・。もっとも、テレビを観る時間自体が減ったので、「オモテ」は観ていない。結果、オモテはわからない状態で裏話を聞くことになる。そういう人は、少なくないのではないだろうか。

インターネットのもたらしたものは「脱中心化」だ、と最近読んだ本に書いてあった。ひとりひとりがメディアを持ち、主体的に意見を発するという状況は、インターネット以前ではあり得なかった(かくいう私も)。バラエティでいえば、テレビという“中心”が力を失い、YouTubeの時代に変わりつつある。業界の中心に君臨する支配者が力を失い、各人がメディアを持つという変化を、「メディアの民主化」と捉える者もいる。

YouTubeがメディアの中心になり、その裏話がテレビで流れるようになるという推測は、けっして的外れなものではない。それは、かつてメディアの中心だったラジオに、テレビの裏話が流れ込んだ構造と相似だ。ただ決定的に違うのは、YouTubeには中心が無く、つまり「オモテ」を生み出せないということだ。「建前」を言うことは忌避され、ひたすら「本音」が要求され続ける。「本音」の体裁を具えた「裏話」は「建前」との区別できないまま飽和していく。ただ、すべてに信頼が失われていく。

「オモテ」が生み出されることなく、すべてが「裏話」に堕していく世界で、バラエティは、感性は、どのように変わっていくのだろうか。フィクションの想像力は、何を描けるのだろうか。考えるほどに淋しさが胸に膨らんでくるが、この淋しさは本当なのだろうか。

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