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《多様性》を認めるとは

多様性のことをときどき考えるのだけれど、ちょうどいつもブログを拝読しているやひろさんが、多様性についての投稿をされていた。整理された丁寧な文章だったので、そして自分の例ばかり書くのもつまらないので、今日は引用からはじめる

昔、物流倉庫で管理職をしていたときに、体重が140キロある高卒の男子が配属されてきたことがある。

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仕事は庫内作業で、基本的には立ち仕事である。しかし、その子は「立ってやる仕事はできない」と言った。体重が重すぎるので、足に負担がかかりすぎるのだという。

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前述の通り、他には同じ作業をしている人が200人ぐらいおり、特例で彼だけ椅子などに座らせてやってもらうと、他のスタッフもわがままを言い出すおそれがある。そこで、いったんは現場ではなく事務所で働いてもらうことにした。

しかし、あまり本人はデスクワークに適性がなく、半年ほどでやめていってしまったように記憶している。まあ、どうしようもないといえばどうしようもないが、どうすればよかったんだろうな、という案件ではある。



「多様性を認める」という言葉が世間で頻繁に唱えられている。私たちはつい、《多様性》という見慣れない語のほうに気を取られてしまうけれど、私はこの流行語の核は「認める」のほうにあると睨んでいる。



たとえば性志向や人種など、仕事や利益に関係ないマイノリティ性は《多様性》として認められるけれど、「仕事をサボる」「毎日職場に来ることができない」といった負の要素は《多様性》としては認められることはない。上のやひろさんの体験談でいえば、働けない彼は《多様性》から排除される人間だということができる。

「《多様性》を認める」と一言に言っても、実際には認められるマイノリティ性と認められないマイノリティ性がある。つまり、多様性という言葉が本来持つ、人間全員肯定しますよというヒューマニズムのようなものは、社会で言われている《多様性》には無い。

そして、その〈認める/認めない〉の線引きは、ただただ資本・社会にとって都合がいいか、だけで決まる。



「《多様性》を認める」という言葉に警戒してしまうのは、この言葉が新たな包摂と排除を生み出す気がするからだ。マイノリティ性は包摂されれば均一化につながるし、排除されればこれまで以上に弾圧を受ける。

この言葉が、生きやすさをもたらさないことだってある。いや、生きづらくなる可能性だって全然高い。なんというか、今日はあまり上手く書けなかったのだけれど、注意しなければならない潮流なのは間違いないように思う。


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