「差別はいけない」とみんないうけれど

それにしてもここ一週間ほど日記の調子が悪い。綿野恵太著「『差別はいけない』とみんないうけれど」を読んだからだ。いまの社会で言論がどのように醸成されているのかを精緻に切り出している。ああ、自分が漠然と思っていたことを、鋭く書いている方が既にいたんだな。と思いながら、でもどうしよう、とも思う。以下読書メモ。



本の中では二つの概念が登場する。ひとつは「アイデンティティ」。少数民族、日本人、セクシャルマイノリティなど、自分の属性に基づいて発信された意見のことを言っている。筆者はそれを民主主義的という。

「アイデンティティ」は同質性が必要になる。そのため、必然的に異質なものを排除することになる。朝鮮人は日本から出て行け、のように。そして、その同質性には根拠がない。そのため、その排除は「差別」になる。

対する「シチズンシップ」は、文字通り市民としての声だ。ひとりの立派な市民として、社会や個人のありかたについて意見を発信する。当事者ではない者が物申すために、市民という概念が導入される。

「シチズンシップ」の意見は普遍性が目指される。誰もがそうあるべき、という感じ。市民としての意見は、世界市民的な立場にもつながる。こちらは民主主義に対し、自由主義的だと説明される。



ここで、市民という概念の空虚さが問題になる。市民とは、誰もが市民であり、誰も完璧な市民ではない。市民とは概念でしかない。

そこから、市民という概念の空虚さを補うために、市民であるか否か、の排除が始まる。市民の「アイデンティティ」化だ。過度な道徳の押し付けや、異常な炎上騒動など、同質性による排除が始まる。そして、全体主義な暴走がはじまる、現に今日も。さて、どうしよう。



今年の夏には参院選があるけれど、左派の迷走はヤバい。かといって極右的な政党にも入れたくない。俺が政治家になればいいのかもしれないけれど、あいにく人望もないし、フォロワーもちょっとしかいない。あああああ。

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