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「スベる」ことを批判しすぎてはいけない

福岡PARCOで開催中の展覧会で、炎上騒動が起きている。問題となっているのは会の展示案内として設置された、歓楽街の無料案内所を模した作品だ。アーティストを風俗嬢のように紹介したその作品は、すぐにSNS上での批判を巻き起こし、参加アーティストのボイコットにまで発展した。PARCO側は案内作品を撤去し、謝罪を発表した。

私は、この作品を直接観ているわけでもなく、擁護したい気持ちも特にない。その上でこの件に関して思うのは、これは作品が「スベった」という捉え方が適切だということだ。どういうことか?(ここで昨日の大喜利の記事と繋がる)

今回の騒動では、まずジェンダー・フェミニズムの視座からの批判が想定できるだろう。他には、アーティストやアート作品が消費されていく社会環境や、公共性と表現の自由という斬り口からも、批判は可能だ。けれど、それらの批判は作者の「意図」を絶対視しすぎているように思う。

アート作品は、過去作品には無い、斬新さが求められる。それをつくるため、論理性を超えた、直感のようなものを信じざるを得ない局面もあろう。作品の周囲には無限に複雑な文脈が存在し、その中で作品は産み落とされる。

この作品が、「面白そうだな」くらいの軽いノリで製作されたという可能性も全然ある。少し下品な表現ではあるが、まあ受け取ってくれるでしょうという楽観があり、発表に至った。しかし現実は拒絶されてしまった。これはつまり、「スベった」ということではないか。

どんな内容のものでも「スベった」と言って逃げるのは狡いけれども、大喜利的なものに「スベる」ことは付き物だ。それを批判しすぎてはいけない。

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