見出し画像

イヤイヤ働いてみてわかったこと

#就活について語りたい 、というハッシュタグがあり、辿ってみれば案の定、やれ自分の強みを見つけるやら、ありのままの自分をさらけ出すやら、ぬるい自己肯定と欺瞞が並べ立てられており見たことを後悔した。noteの、最もnoteっぽい部分を見てしまい、蓋をしていた就職活動期間のことを思い出してしまった。

当時の自分はアルバイト先でも孤立している内向的な人間で、仕事なんて3日も続かないと本気で信じていた。すぐ辞める会社にこだわりなど無く、どこでもいいと思いながら世間体のためとりあえず面接に通う日々だった。

就職活動をするということは「なぜ働くのか?」という疑問に直面するということで、当時の私にはかけらもわからなかった。巷に溢れる「キャリアプラン」やら「自己実現」やら「ありのままの自分」やらが、気持ち悪くて仕方なかった。アレルギーのように、その磁場から逃げたくてしかたなかった。

その後なんとか就職した自分は、途中無職期間があったり芸人を目指したりしつつもなんとか社会人生活を続けており、転職も1回のみで過ごしている。イヤイヤ働きながら、なんとか食いっぱぐれずに済んでいるような現状だ。

そんな自分が働いていてわかったのは、働くことに意味なんて無いということだ。目的のために情熱を燃やすような働き方をしているような人間はほとんどおらず、実際は目の前の業務を頭を掻きながらこなしていくだけだ。アルバイトとの違いも特になく、責任感のある人間は立派だし、クズはクズだ。

強いて言えば、学生と社会人が異なるのは「働く意味」のような大義が無いことに耐えられるか否かだ。無駄なことに振り回されることも多いのが社会人で、それをなんとなくやり過ごさなければならない。それができるのが社会人だ。

そもそも、人生の行為がすべて社会的な「意味」に回収される訳ではない。むしろ人間は、社会「以前」の存在だ。人間という種は社会ができる以前から生命の循環を繰り返していた。人間の生きる意味を、社会が後からもたらすわけがない。もちろん、働くことが人間に意味を与えることも無い。これがイヤイヤ働いてみてわかったことだ。

ちなみに、もし就活中の方がこの文章を読むようなことがあるとすれば、学生のときの感覚を記録に残しておくべきだと言いたい。社会人になれば、だんだんと学生時代の感性を忘れていってしまう。特に嫌な記憶には蓋をしがちだし、歴史は美化しがちだ。その時の記録が残っていればどんなにいいことか、と思うのが、就活の唯一の後悔です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?