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今日はリスペクトの話に落ち着く

そもそも、何故こんなに「気合い100連発」について考え続けているのかというと、YouTubeで見たAbemaのインパクトが大きかったからだ。というより、コメンテーターに腹が立ったから。受け取り手の自由とか、結果的に福島の人が悲しんだからとか、何言ってんのみたいになって、しばらく怒りが収まらなかった。

一番気になったのは「自分はアートを詳しく知らないですが、」という言葉。司会の乙武さんが発したものだ。この言葉はアートの側に肩入れをしすぎないよう、中立性を保つために言われたものに聞こえた。でもどこか引っかかる。

先のニュースショーでは、作品が流れたあと、卯城さんによる解説がはじまる。作品がどういった背景と経緯で制作され、完成後に各地のアートイベントでどのような検閲を受けたか、その検閲に対しどのような態度をとったのか。この「気合い100連発」に関していえば、過去の文脈として知らなければならない背景というものはほとんどない。むしろ、解説を聞けば十分理解できる内容だった。それでも、解説の後も、番組内では批判が繰り返される。



たとえば喧嘩の仲裁に入るときをイメージしてほしい。「あなたがその行動を取った理由なんて知らないけれど・・・!」と言うだろうか。普通は、「あなたがその行動を取る気持ちもわかるけれど」と言うはずだ。

議論や対立の落としどころを見つけるには、双方の文脈を理解する必要があるのは、ごく当たり前のことである。しかしその当たり前が、ここ最近失われようとしている。

建設的さの対岸にある、破壊的な議論だ。

ここ最近、破壊的な議論ばかりだ。片方に肩入れをし、議論の勝ち負けにすべてを賭ける。背景を共有できない。相手の知性を全否定する。ネトウヨ的な論陣も、フェミニスト的な意見も、ともにそう見える。相手へのリスペクトを欠き、自分の主張を押し通し続ける限り、解決は永遠に訪れない。

世界には無限の文脈が存在し、それぞれに固有の論理があり(なおかつそれがすべて表面化しているわけでもなく))、なおかつその相手は人間で歩んできた人生があるということ。このことを本当に心の底から理解できないと、もう建設的な議論なんて、そして未来をともに作っていくことなんて、もう永久にできない気がする。

特にそれは、自分が常識の側に立っていると思っている人間ほど、つまり自分が正しいと思っている人間ほど、心に刻まなきゃいけない。地獄だとしても、その地獄も理解してあげないと。そのなんと難しいことか。

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