見出し画像

フェミニストと議論

なるべく見ないようにしているのだけれど、帰りの電車でフェミニストの記事を読んでしまった。失敗した。社会学者の宮台真司氏がTBSラジオに出演したときの発言を、「おもしろおかしい」風にツッコミを入れています、みたいなコラムで、読まなきゃよかったと途中で後悔すれど時すでに遅し。あーあ。あーあーあ!!!(そもそも反論とはいえ宮台氏本人が拡散する状況には少しウンザリする)



正確な論旨や文章はradikoや原典にあたってもらうとして、だいたい宮台さんは「閉ざされ」の状態にある自分を解放するものとして、性愛やセックスは重要だというようなことを言っている。

宮台さんの言う「セックス」は、文字通りの性行為のことでもあるし、コミュニケーション全般のメタファーとしての言葉でもある。自分自身の殻に閉じ込められないように、他者に導いてもらいましょうよ、という人生訓として、他者との最も深い交流である性愛やセックスの重要性が唱えられているということだ。

で、これに対して著者の方は、

で、そういう一つ一つを、「それ、違いますけど」とフェミニストたちがアップデートしていく作業がここ数十年間で行われてきたのだと思う。セックスは、言葉で同意を確認しながら、権力の乱用が起こりえない安全な状況で、安心した気持ちで、本当に自分がしたいと思えることを、お互いの意思を確認しながらするとすごく気持ちいいのではないでしょうか……というところに、行こうとしている……はずだ。


と、つまり「同意」や「安心」のほうが大事だ、と反論する。いわば「閉ざされることによる安全」を目指しているといえる。まあ、上の引用の「セックス」を、「コミュニケーション」や「部活」とか、とにかく色んな言葉に入れ替えてみると、このフェミニストの方の発言の小ささが感じられるのかなとは思うけれども、特に批判したいわけでもないから放置。



この騒動は、片方には啓蒙的な立場から「閉ざされ」解消への導きを目指す宮台氏がいて、もう片方には「閉ざされることによる安全」を目指すフェミニストの著者がいる。そして宮台氏の導きを閉ざされたフェミニストが拒否する、というのは、まさにメタ構造になっている。

ここでひとつ疑問が浮かぶのは、安心安全を求める立場の人間が、なぜノイジーな場である議論の俎上に来るのかということだ。閉ざされた人間にとっての議論とは何物なのか。

そもそも議論とは相手と知識や思考を交換しあうことであって、自己を高めるための行為だ。上のメタファーでいうセックスに近い。であれば、そもそもノイズを排除して安心安全を求める立場の主張は、議論できなさに立脚して論理が組み立てられている。

この間、対話vs非対話というメモを書いたけれど、非対話の論理というものを、どうすれば理解できるのだろうか。普通の人には出来るのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?