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2023

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2023年2月の記事一覧

スポーツと暴力(エッセイ)

スポーツと暴力(エッセイ)

家に帰るとWBCの特集がやっていた。スポーツをとりまく環境とは不思議なもので、まったく生産性の無い遊びが社会的に尊ばれている。洗濯機を回しながら惰性で見る。

改めて見ると、スポーツとは規格化された暴力の発露なのだと思う。ものを遠くへ投げ、棒で球を叩く。方向性の定められた暴力がパズル状に組み合わされ、競技が成立している。そして観客は熱中する。そういえば昔、私は運動部だった。

スポーツに観客が燃え

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「ぐず」と言われるような速さでしか

「ぐず」と言われるような速さでしか

疲れているのか、養成所に通っていた頃のことを一日中考えていた。自分の書いたネタを演じるというのは楽しく、充実した期間だった。でも楽しいのは自分だけで、自分のやりたいことを主張するほど周囲は離れていった。きっと気難しいキツい人だと思われていたのだろう。

現在のお笑いシーンを、いつまでも好きになれないでいる。新しい売れっ子も、トレンドのネタも、ピンとこなくなってしまった。新しく没入できるものも見つけ

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作家の顛末(エッセイ)

作家の顛末(エッセイ)

GRAPEVINEの復帰ライブがあったそうで、Twitterに感想が流れてきた。ファンは概ね温かく復活を迎え入れて、ピースフルで盛り上がるライブだったみたいだ。

が、最後に演奏されたのは、この「作家の顛末」という曲だった。曲は、作家が才能に絶望して、現実に目醒めさせられるという物語だ。GRAPEVINEは、温かな再始動ライブに、自ら冷や水を浴びせて帰った。私は、その緊張感というか、姿勢を信頼して

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軽やかに生きる以外に道はない

軽やかに生きる以外に道はない

消費社会ではアイデンティティという概念は存在しない。自らの本質というものは存在せず、その疎外に対する苦悩も成立しえない。ただ、ショーウィンドウに映る自らの姿を、記号の集合として捉えるのみだ。

ボードリヤールは、それを「遊び」と表現する。自己のアイデンティティや疎外に取り憑かれるのではなく、記号の集積としての自分自身と遊ぶ。記号とは戯れることしかできない。自らを悲劇的に思い悩むような身振りはもう成

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器(エッセイ)

器(エッセイ)

このごろ、結局人間を決めているのは「器」なのだと思うようになってきた。どれほどの大きな仕事を成せるか、どれだけ大きな収入を手に入れるかどうか。それは、ビビらずにいられる覚悟があるかであり、カネを稼ぐ決心がついているかどうかなのだと思う。

ボードリヤールの消費社会論は、モースの『贈与論』→バタイユの「エコノミー論」という系譜を引き継いでいて、贈与・消費という概念を中心に経済を捉えている。そこでは、

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遅刻(エッセイ)

遅刻(エッセイ)

彼女が待ち合わせに遅れて、時間を潰しながら日記を書いている。普段なら待ち合わせに暇潰しの本を持っていくのだけれど、今日はあいにく持っていなかった。カメラとお土産でリュックが一杯だった。

ここ半年ほど、彼女は常習的に遅刻をするようになった。付き合いたてのころは遅刻なんてなかった。安心して甘えられているともいえるし、飽きられてきたとも捉えられる。

私は待ち時間が嫌いだ。待ち合わせには時間ぴったりに

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自決の件(エッセイ)

自決の件(エッセイ)

時事のネタに乗ったり斬ったりしたいわけではないのだけれど、某成田氏の集団自決の話に妙に引っかかっている。言いたいことがまとまっているわけではないのだけれど、とりあえず書き始めてみる。

話を簡単に整理すると、某氏が少子高齢化を食い止めるためには老人が集団自決をするシステムを作るしか解決策は無いという発言をした。それがニューヨークタイムズに取り上げられ、炎上騒動に発展した。SNSを中心に賛否両論の意

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労働ですら(エッセイ)

労働ですら(エッセイ)

我々は、労働ですら消費の対象にする社会に生きている。仕事にやりがいを求め、憧れの職業を目指して競争する。その虚しさは何なのだろう。

現代は、すべてのものが過剰な社会で、私という存在もそのひとつだ。社会は私がいなくても充分に回る。私にできることといえば、贅沢することくらいしかないのかもしれない。

永遠回帰(エッセイ)

永遠回帰(エッセイ)

昔から人間関係にうんざりすることばかりだった。小学校ではいじめられ、学生時代は周囲の顔色を伺ってばかりだった。大人になっても、自分の正義を追求すれば、他人は離れていく。何度も痛い目を見てきたつもりだ。

それは一生繰り返される。

だとすれば、それはしょうがないことで、受け入れるしかない。努力云々ではない。現実を受け入れた先にしか、生は肯定できない。

むしろ、交友が狭いからこそ、少ない縁を大事に

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動物園(エッセイ)

動物園(エッセイ)

今日はせっかくならホッキョクグマでも見て帰ろうと、円山動物園に行った。園内は坂が多く、滑らないように手でバランスを取りながら歩いた。スキー服を着た子供がたくさんいて、動物と同数くらいだった。頭にみぞれが当たり、靴に染み込んだ雪が靴下を冷やした。糞の匂いが漂う建物ばかりだったが、オオカミ館だけアーモンドの匂いがした。

一緒に行った先輩と、くだらない話をしながら歩く。ふと、互いの彼女の話をするのは変

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「雛鍔」制作ノート#7 (エッセイ)

「雛鍔」制作ノート#7 (エッセイ)

寄席が無事終了した。いまは打ち上げが終わってホテルに着いたところだ。久しぶりにお酒を飲んで、少しクラクラした気分だ。寄席が終わったあとの独特の淋しさを味わっている。

【演技について】
高座に上がる前は、ネタが飛んだときの事態ばかり想定していた。本番10分前に「恥をかいてこよう」と腹が決まって、そこからギアが入った。マクラは上擦っていて焦ったが、ネタは思ったよりも安定して出来た。全体としては大きな

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いまのままの(エッセイ)

いまのままの(エッセイ)

人間は記号の集積だ。記号とはつまり代替可能なものである。そして社会は記号を消費していく。その元も子もなさにすくんでいる。

社会に順応すればするほど、本来の自分を見失い、自信を失くしていく。いまのままの自分で、社会に認められることは無い。そのことを、私はまだ受け止められずにいる。

明日は寄席で、今晩あたりには腹を括らないといけない。

自分を「売る」(エッセイ)

自分を「売る」(エッセイ)

養成所に通っていたとき、「自己プロデュース」という言葉をよく聞かされた。それは自分自身を受け入れられやすい形に成形することで、つまり自分を「売る」ということだ。社会に出ていくためには、自分を抽象的で交換可能な価値に変換しなくてはならない。だから、「すべての労働は売春である」。

家で他人と喋らずに過ごしていたら、声量が出なくなってしまった。落語にも身が入らない。何もしていないと、何にもできない人間

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出会いの季節(エッセイ)

出会いの季節(エッセイ)

ここ数日、起きるたびに頭が痛い。気圧が低いわけでもなく、どうやら花粉が飛び始めているようだった。寒さも終わらぬうちから、次の苦労が飛んでくる。このまま仕事復帰できるのか、頭痛は気分まで重くさせる。

決断をして一歩踏み出すのが嫌なのは、「他者」と「責任」があるからだ。自分が決断して行動を起こせば、他者に影響が及ぶ。それによって損失が発生すれば、自分の責任となる。他者に影響なく、自由に振る舞おうとす

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