痛い目みてもいい
「こんな時代じゃあ手間暇掛けようが掛けなかろうが終いには一緒くた」
「きっと違いの分かる人は居ます
そう信じて丁寧に拵えていましょう」
「痛感したいです近寄れば悲しく離れれば楽しく見えてくるでしょう」
これが人生だと言い切ってくれた偉大なる作家がこの世にいる
私が1番人生を悩んだ時
雷のごとく私の前に現れた彼女の言葉は、私の手を取ってこの言葉をくれた
その当時は、正直たくさんの人があらゆることを手助けしてくれる反面その人たちを私1人が背負っているという大きな自覚や
世間から見れば通学をしていないどうやら音楽をやってるらしい昼でも働くアルバイトの女子高生というギャップ
いや、この場合は事実と言う方がいいのかもしれない
話し始めるとキリがないほど
私が私であるというアイデンティティ全てが気に入らなかったし怖かったし辛かったし生み出すものも納得がいくまで時間がかかっていた
それに、音楽という存在が
私が体験してきたものよりずっとぞんざいに消費されていくのをぼーっと見過ごすことしかできないのも苦しかった
私の感覚が大人なのではなく
アップデートされていないというだけ
と痛感せざるを得ない日もあったことは確かだったしそれでもあの初めて聞いた時の震えてしまうくらい感動する喜びとか作り手がどうやってここまで作ったかを想像した時に生まれるありがたみとかそういうものを大事にしたかった
でも、最近は世の中そんなに身を削ってまで音楽作る人の方が少ないらしい
悔しい、とてもステレオタイプと言わざるを得ない現状と、
しだいに正しいのか、正しくないのかという二極で考え始めてしまうことも
はじめ、当時はという書き方をしたけど書いているなかで
「あー、いまも同じことを考えてるな」と思った。
そういう時決まって聞くうたは
違いの分かる人がいるように
分からない人も世の中たくさんいるけれど、1人もいないわけじゃない
きっと作った音楽を良いと評価する人はいる
と私を励ましてくれる
そう、98年からこの瞬間まで
音楽を生み出し生業としてきた
圧倒的信頼のある彼女が歌うこの言葉こそが私にとってのバイブルのようなものなのだ
勿論、才能や経験、そういったものがあまりにも違うみたいな話をするとそこまでなのだけれど
私のような端々のものづくりの人間にとっては、
「そういうならもう少し頑張ってみよう」って単純だからそう思えるのだ
これは簡単に「詩がいいから」
ということではないことの証明だと思う
彼女のここまでの人生があり
なにをしてきたか
その上で彼女自身が書いたから
それを彼女の声が伝えてくれるから
だから意味がある
私もつくづくそうでありたいと思う
私の歌を誰かが歌っても、良いな
という曲もとても素敵だと思う
だけど
私は私の言葉を私が歌うからこそ意味をなすという実感がしたい
こういう気持ちを沸かせてくれることも、ある意味この曲が持つパワーだ
今日も明日も明後日も続く毎日の中で曲を生み物を作りいつか日の目を見てほしいと祈る
この繰り返しをもう5〜6年しているんだから正気じゃない
ただ、正気じゃいられないうちが
私の音楽を作るべき時間だと
そう思ってる
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