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ただあなたの、前途を祝して。

急性期として最期まで治療し、短い終末期から看取りまでを全力で伴走するような看護が自分に合っているのかなと思う。
そう感じたのは、先日ある患者さんが看取りになったのがきっかけだった。

血液内科の看護は、終末期に差し掛かりそうな患者さんでも、最期まで治療することが多いと感じる。治療自体が症状緩和となることもあるよう。
先日亡くなった患者さん、状態が思わしくなくご家族に覚悟するよう伝えられていたが、それでも抗がん剤治療は続いていた。
痛みが強く麻薬が開始となっていた。
朝方に身の置き所がなくなり急激に血圧が下がりお看取りとなった。

受け持つ機会が定期的にあり、少しずつ関係性を築いていた。(謎に女子プロ麻雀棋士の方に似ていると覚えられていたことが印象的。)
気難しい人かもと思いつつ、治療や療養生活に対して様々な思いがあるのだとわかった。関われる時間、じわじわと関係性を築け、いろんな話をできる時間が楽しみだった。
処方薬で飲みたくないと訴えがあり話を聞きに行った際には、すがいさんと喧嘩はしたくないと話していた。とっても同意。
飲みたくない薬はとことん飲まなかったし、したくない点滴もとことん拒否している人だった。したいことしたくないことがはっきりしていた。
あとわずかの命と言われていたけれど、最期まで自分の足でトイレに行き、なんとか食事を摂っていた。
とにかく自分の生き方を最後まで貫いていた。
私への最期のことばは「おはよ。」だった。
身の置き所のなさに苦しんでいた。どうしようもなくて背中をさすることしかできなかった。
苦しんでいたけど最期は解放されたのかな。
あの世が良きものとなるよう願うしかない。
看護者としては、最後の身の置き所のなさがいたたまれなかったから、もっともっと楽にさせてあげられなかったかなあと思う。看護者のエゴかもしれない。
少しずつ関係性を築いてきていて、この人に苦しんでほしくない、でももっと同じ時を過ごしたい、よく生きてほしいと願わずにはいられなかった。
この人が亡くなった時もまた、悲しくてしょうがなかった。冥福を祈るしかない。

最期をどう迎えたいかは、本当に個々の価値観で左右される。正解はない。
生きることに貪欲で、少しでも長く生きるために治療してほしいという気持ちもあってよいと思う。
本人も家族も納得の上でよき最期を迎えてほしいのが本音。
それが難しいからこそ、コミナスや地域活動でアウトプットして、どんな最期を迎えたいのか考えられる時間を設ける必要があると思う。

現場にいる私としては、何もできない気持ちになることもある。無力でも、最期までお互い悔いのないよう駆け抜けたい。
いままでの体当たりの急変対応・ターミナルケアも、報われなかった心マも、独特のスピード感も全部全部。
今となっては、1周まわっていとおしく感じる。
現場にいる時間も大切に、どんな場所にいても使命を全うしたい。
そんなことをおぼろげに思う今日この頃でした。

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