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日本食の変化

「日本食」と聞いて、皆さんはどんな食事を思い浮かべるでしょうか。実は「日本食」くらい曖昧な言葉はありません。なぜなら日本人の食生活は、この百年間だけでも大きく様変わりしているからです。

大正・昭和初期の食事と平成の食事は違いますし、時代を遡ればその違いはもっとはっきりするでしょう。また棲む場所や経済状態でも異なったでしょう。

そこで、一括りされがちな日本人の食が近現代にどのように変わってきったかを、ざっくりと追いかけてみます。

近代化と肉食

日本人の食の変化を一言でいうと、次の一文に集約されます。日本人は米を食べなくなり、肉を多く食べるようになった。

具体的には、米の消費量はこの60年間で半分以下、食肉の消費量は10倍以上増えました。パンが日本人の食に定着したことも、この傾向に拍車をかける一因になったと思われます。つまり、伝統的な日本食から欧米型の食になりました。


農水省HPより「1人・1年当たり消費量の変化」

日本人の食が欧米化するきっかけは、明治期まで遡ります。文明開化政策として畜産と酪農が導入され、政府が国民に肉食を勧めたことにより、それまで悪であった肉食への価値観が大転換してゆきます。

非西洋世界の国々では、日本がそうであったように近代化にともない食生活が西洋型になり、肉食化する傾向があります。アジア諸国もまた近年著しく肉食化が進んでいて、世界的に肉食の習慣は広がっています。

気候風土が決めた食

伝統的な日本食に肉が含まれないのはなぜでしょうか。一般には仏教の殺生禁忌から説明されることが多いですが、答えを一言で表すとすれば、日本人は牧畜民族ではないから、言い換えれば農耕民族であるからです。

肉は、牧畜をすることによって得られる食べ物です。牧畜は家畜を飼いながら、その動物を利用し食べます。家畜とともに移動することもあるので、遊牧とも呼ばれます。

牧畜に適した土地は草原のようなところで、雨が少なく乾燥しています。逆にいうと、平地が少なく多雨で植物が森のように繁茂する土地では、牧畜より農耕の方が適しています。日本はまさに後者であり、古来農耕民族として生きてきた日本人の歴史には気候風土的な必然性があったといえるでしょう。

消えた日本の村と食

近代化以前の時代や近代化に立ち遅れた地域では、伝統的な風習が残っています。日本の昭和前期もまた、近代化のなかにありながらむかしの暮らしを続ける日本人がいました。この時期に全国の村々を調査に歩いた宮本常一のような学者が、いまとなっては貴重なむかしの記録を残しています。

東北大学名誉教授の近藤正二博士も、食生活と健康の関わりを調査するために全国の村々を歩き一つの結論を得ています。それは、主食に麦や雑穀が多く、大豆や野菜、海藻を常食する村人は長寿に恵まれる一方、白米を多食し、野菜が少なく、肉魚をよく食べる村人は短命になりやすいということです。

近藤博士の調査により作成された日本地図には、長寿村と短命村が示されています。青い丸が長寿村、赤い丸が短命村、青い網掛け部分は長寿村の集中地、赤い網掛け部分は男の方が女より長生きの地域です。


近藤正二著『日本の長寿村・短命村』より

こうした村々も、都市へ人口が大量に移動したため、静かに消えていったことでしょう。

米の主食化が悲願だったが

日本人は米に特別の価値をおいてきた民族です。日本人の主食は米であると、当然のように思っています。しかしながら実際には、長きにわたって米は日本人の主食になりえませんでした。

国民の大部分が農民だった江戸時代、農民は米を作っても年貢で取られるので、自らは麦や雑穀を食べざるをえませんでした。少なくとも米は日常的に食べられるものではなく、ようやく全日本人が米を毎日食べられるようになったのは、それほど遠いむかしではありません。

ところが晴れて米が主食になったとたん、日本人の食生活が急速に欧米型になり、それに反比例するように日本人は米を食べなりました。まったく皮肉としかいいようがありません。米離れが常態化し、減反政策が長期間続行されたことは記憶に新しいところです。


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