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「悩みだらけの一年目」教師としての原点

一年目に書いたレポートが出てきたので、ここに載せようとかなと思います。今読むと恥ずかしいですが、教師としての原点を大切にしたいなと感じました。一年目に悩んでいる先生に少しでも届けばいいなと思います。


1 はじめに

「大学時代の学びは、現場に立つと役に立たない」と言う声を良く聞きます。果たしてそうでしょうか。私はそうは思いません。大学時代の学びこそ、教師としての原点であり、これからの教員人生の基盤をつくる場であると思っています。

2 信念のぶれ

私は大学時代から「子どもの問題行動には必ず背景がある。そこに寄り添っていくことが大切である」と教わってきました。ゼミや教育実践演習では、様々な子どもたちの事例から、抱えている背景や問題などについて話合いました。そこでは、目の前の問題行動とは違った視点で、子どもを捉えることを大切にしていました。そのような経験を通して、私は「子どもへの見方」が確実に変わっていきました。子どもの困難さをどう受け止め接していけばいいのか、それを自分のなかでの軸にしたいと思っていました。現場を知らないからこそ、大学時代の学びは自分の「志」を追求できるのだと思います。

希望に満ちあふれた一年目。私は子どもたちの声を聴くことを大切にしていました。理由や言い分をしっかり聴き、一緒になって考え、「受容」と「共感」を軸に、子どもたちと接していきました。怖さに頼る指導は、教育ではないと私は思っています。しかし実際には、子どもの内面になかなか寄り添えず、頭ごなしに叱っている日々でした。自分の「志」はあくまでも理想に過ぎず、学級経営も上手くはいきませんでした。

「強く叱れないのは、子どもから好かれようとし過ぎているからだ」
「それは優しさではない」
「一回痛い目に合わせないと、子どもは調子に乗るだけだ」
などいろいろと指導も入りました。何も言い返せず、悔しい思いをしました。

初任者の時に、教頭先生に体育の授業を自分のクラスでして頂きました。教頭先生は、できる子もできない子も平等であり、特別扱いはしません。また、学習規律は徹底的に守らせるという信念を持っています。集合や整列など、いつもとは違う子どもたちのきびきびとした態度には驚きました。やればできるのだなと思ったと同時に、子どもたちのだらだらとした態度を何とか変えたいと思っていました。

次の日、私が体育の授業をしていた時に、なんでもないことで、頭ごなしに怒鳴りました。今日の体育はいつもより引き締まっていた、ちゃんと子どもたちも指示通りに動けていたから良かったと思っていました。でも結局それは「怖さ」による指導にすぎませんでした。体育が終わって教室に戻ると、「教頭先生の真似をしている。豆太先生らしくなかった。」と子どもたちに言われました。学級が上手くいっていないという焦りからくるもので、教頭先生のように指導するのが、教師なのだと思っていました。結局は、枠組みに子どもたちを当てはめようとしていたに過ぎませんでした。そこを子どもたちに見事に見透かされました。

「教師とはこうあるべきだ」「これが正しい」と現場では良く言われます。そして、いつの間にか学校のスタンダードに洗脳されている自分がいました。しかし、そういう時こそ、目の前の子どもたちが教えてくれます。圧力による指導にはしらなかったのは子どもたちのおかげです。自分の信念を貫くのは大変ですが、私は大学時代に持ち続けた「志」をいつまでも持ち続けていきたいです。

3 おわりに

「類は友を呼ぶ」ありきたりの言葉ですが、大学時代にこれほど痛感した言葉はありません。自分が主体的に学ぼうと思えば思うほど、周りにはそういった仲間が集まり「つながり合う」ことができます。
子どもたちのために学ぼうという人は、自然とそういった仲間が集まります。大学時代に自分がどれだけ学んできたのかが問われてきます。大学時代の学びこそ貪欲に、主体性を持って、仲間と共に学ぶことが大切だと思います。

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