感謝の言葉は要りません
2020年12月10日、「日本看護管理学会より国民の皆さまへ ナースはコロナウイルス感染患者の最後の砦です」という声明が出された。
その中の一文が目に止まった。
私たちは自分の仕事を全うするだけですので、感謝の言葉は要りません。
ただ看護に専念させて欲しいのです。
25年前の苦い記憶が蘇った。
★
当時、私は出版社に所属する編集員だった。
書籍が中心の出版社で、年度末は恐ろしい繁忙期となった。電算写植からDTPに移行する過渡期のころで、パソコンもメールもなく、紙と郵便と電話で情報が飛び交っていた。
お屠蘇気分から年度末モードへそろそろ切り替わろうかという小正月の休み明け、それは起きた。
阪神・淡路大震災。
私がいた出版社は京都だったから、社に被害はなかった。ただ、著者たちの多くが関西にいた。被害の中心となった神戸にも。
連日電話をかけて著者たちの安否を確認した。個人で携帯電話をもっている人はほとんどいない。受話器を上げ、代表番号にダイヤルし、交換手に内線番号を伝え、つないでもらう。
だが、何度かけても、電話はつながらなかった。
「ツーツー」と通話中を示す虚しい音が耳に響いた。それでも、次はつながるかもしれないと、何度も何度もかけ直した。つながらないという混乱が、余計に私を追い詰めた。馬鹿みたいに、かけ続けていた。
大規模災害時に救急用の重要な回線を確保するための通信規制が敷かれたり、災害時伝言ダイヤルが整備されたりするのはこの地震の後だ。
自分のやっている行動がかえって通信にダメージを与えているなんて考えもしなかった。
道路も大渋滞していたし、ボランティアも大混乱だった。
誰もが、なにもかもが、クラッシュしたまま、気持ちの持っていきようを失っていた。
「やっぱり水を背負って神戸まで歩いていったほうが早いかな」
大真面目に思いながら、何日も電話をかけ続けた。
何十回とかけたら突然つながることがあった。受話器を握りしめ直して著者の名前を言い、取り次いでもらった。無事に電話口で声を聞けたときは泣きそうになった。自分は大丈夫だったが教え子が何人か押しつぶされて亡くなったという話を聞いたときは、ほんとうに泣いてしまった。
原稿の催促をしなきゃいけない人も多かったが、とにかくよかったよかったとしか言葉にならかった。
著者のなかに、日赤病院に勤める教師がいた。同じように電話をかけ、つながった。無事だった。よかったと思わず口にした。
「なにがいいんですか!」
彼女は電話の向こうで怒鳴っていた。
「こんなところに呼び出して。いまここがどんな状況なのかわからないんですか!? 校正がそんなに大事なんですか。送りますからちゃんと。でも、もう二度と、かけてこないでください!!」
一気にまくしたてた彼女の怒声を耳にのこし、電話は切れた。
安否を気遣う気持ちを伝えようとするのは自分のエゴでしかないと気づき、かなづちで殴られたような気がした。
無事でいてほしいというつながりの気持ちも、応援や感謝の意も、届けば心を強くするだろう。あとひとふんばりという力にもなるだろう。
だとしても。戦場さながらの現場にいる医療従事者に、わざわざそれを受け取らせようとするのは、第三者のエゴでしかない。
どんなにもどかしくても、歯がゆくても、じゃまにならないよう見守るしか方法がないこともあるのだ。
私は上司に、その著者が無事であることと、医療に従事するため当面は連絡どころではない状況であることを伝えた。
忙しいところを電話口まで来させてしまって、申し訳ないことをしたという気持ちすら、もう届ける手段を失ったみたいです。
そんなことを、もごもごと言いながら。
★★
日本看護管理学会の声明文は、全体の文脈はコロナ対応にあたる医療専門職の人たちへの偏見を捨て、現場に行こうとする彼らを温かく送り出してほしいと言っている。
私の古傷をえぐった一文は、主旨からは少しずれているかもしれない。
だが、敢えてここだけを取り出したのは、この世で言葉を発するという重さを改めて認識しなおしたことを覚えておきたかったからだ。
人と人とのつながりは、それぞれの置かれた現場、都度の状況を推し測ってこそ成り立つ。
こちらの意をそのとおりにあちらで受け取ってもらうのは、簡単なことではない。
年が明けたらまた、あの1.17がやってくる。
命の重さと言葉の重さをかみしめつつ、
伝わるための伝える言葉を、今日も探し続けよう。
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