「コーヒーと、」
コーヒーの最初の一滴は、例外なくおいしい。
好きな女とセックスをした。あたかも幸せなことに思えるが、全然そんなことない。
もし、どうでもいい人だったら。生身の女を抱けてラッキー、くらいには思えどそれほど深く、昨晩のことを考えなかっただろう。
脳内裁判が開かれる。
昨夜のことを思い出した。
俺は、昨日好きな人の恋愛相談を受けていました...
それで、その子が泣き出したんで、いつの間にかセックスしてたんです。
脳内で裁判長が判決を下す。
好きな人に簡単に手を出すなんて、罪が重い。
お前は死刑だ。
ガツンと鈍器で殴られた気がした。
(...そうだよなあ。)
こんなことは死刑だ。
ただ、慰めるつもりだった。
「私は女として、魅力がない」
なんて言うから。
そんなことないよ、って。
俺はいつも、お前にドキドキしてるよ、って。
「好きな人とのセックス以外は、そんなに大した意味はないから。」
その数週間後、俺は俺の好きな人、あかりに意を決して謝った。
謝るのも、何か違うかもしれない...と思ったが
居ても立ってもいられなかった。
あかりは、傷付いていなかった。代わりに俺が何かに支えられていないとうまく笑えないほどに、傷ついた。
「誰かに触れていないと、気持ちがどんどん落ちていきそうだったから...正直助かった。」
とまで、言われた。
俺は、好きな人を助けることができたらしい。
望んだ形ではなかったが。
それから、あかりが寂しくなった日の夜には
俺の部屋でセックスをすることが日常になった。
こんなに一緒にいるのだから、少しは俺に気が向いていないだろうか、と思った日もあったが
あかりの目で、それは違うとわかった。
好きな人に向けるものではなくて、もっとその先の、自分自身なのか、他の男なのか。
とにかく俺と見つめ合いながらも、どこか違うところに気持ちがあった。
それでもよかった。
俺はあかりのことが好きだし、好きな人に求められることが幸福だった。
あかりの周りにいる、他のどんな男よりもあかりの恥ずかしいところを知っているのだ、という優越感もあった。
あかりに触れたときに感じる、じんわりした熱。
自分の手の動きに、あかりの息遣いが重なると、時折、心が通ったかのように錯覚することもあった。
小さな手を取ると、握り返すその指に自分があかりの動きを支配しているのだという気持ちにもなった。
あかりに、気持ちがなくても幸せだった。
あかりは毎回、セックス前にコーヒーを入れた。
そして、次第にそれが合図に変わっていった。
最初のころに
「なんで?」
と聞いたことがある。
「コーヒーってなんか、香りで気持ちが刺激されない?」
そんなことを言っていた。
豆を挽く前からいい香りがするそれは、ブルーマウンテンと言うらしい。
飲むと柔らかな甘みと柑橘系の酸味があった。
淑やかで落ち着いた香りだったが、それが逆に
自然な流れに持っていくことに繋がっていた気がする。
「コーヒーって、複雑でね。最初の一滴は、例外なくおいしいの。だけど、気をぬいて最後まで抽出してしまうと味に雑味が出ちゃうんだよ。」
まるで、バリスタのように語るあかりは、ブルーマウンテンの口当たりのように柔らかい表情で笑った。
そんな関係が続いて、半年。
おかしな関係だ、と思ってはいたものの特に関係性について言及することはなかった。
きっと、あかりは言及してほしくないと思っている。それに、自分も言及した先に望んだ未来があるとは思えなかった。
最初は、あかりの気持ちが満たされるなら、と思っていたが、好きな人が自分に気持ちがないというのは、虚しい。
それでも、離れられないのは何故だろう。
自分が好きな人を満たしているということに浸っていたいのかもしれない。
お互いに、相手を見ていない行為を繰り返してばかりなのに、自分が役に立っているという自負を壊されたくなかった。
「私のどこが好き?」
いつものコーヒーを飲みながら、あかりが聞いた。
「どこが...って、」
「ああ、違うよ。人として?」
何が違うのかは、分からなかったが質問の答えを探し出す。
しばらくコーヒーに描かれた白の「の」の字を眺めていたが、思いつかなかった。
どこが、なんて考えたことなかった。
「どこ」って、その「どこ」がある人なら代替可能な気持ちに思えてしまうからだ。
「...あー、そんなに悩まなくていいよ、ごめんね。」
言って、あかりが話題を変える。
それからだろうか。その日を境に、あかりとはあまり連絡を取らなくなった。
元々、自分からは連絡をすることはなく、求められたときに応える関係だったので、連絡が来なくなることは終わりを示していた。
最初から、最後まで、あかりの中に俺は少しでも存在していたのだろうか。
「好きな人とのセックス以外は、そんなに大した意味がないから」
最初に放たれた言葉と変わることないまま、最後の最後まで、全く感情の高鳴りを感じることはなかったのだろうか。
いつのまにか、スーパーでブルーマウンテンを買っていた。あかりがいつも淹れていたように、抽出してみる。
「...にがい。」
最後の一滴を入れてしまったようだった。
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