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デヴィッド・フィンチャー  『ファイト・クラブ』

僕は今, 銃を突きつけられている. 銃口を口の中にブチ込まれて, 陸の息苦しさに驚愕してのたうち回る魚のような表情をしている. 人生の佳境を迎えているところだ. 銃口を頬張る僕の裡では, 人生”1回分”の思い出が回想されていた.

この物語はそんな始まり方をするのだった.

映像が, 僕の語りナレーションについていくのが大変そうだ. だが, 僕の意識だって窒息しかけている. なんでかって. この世界から退屈なモノローグを聞かされているからだ.

僕がタイラー・ダーデンに心身ともに転げ回されたように, “わたし”もこの映画に翻弄されている. 消費社会がわたしたちと世界との絆を軽薄なものにしたように. この物語が鑑賞者を振りまわす展開の速さときたら, わたしたちに物語を”深く”味わい嗜む隙なんて与えてくれない. おかげで, 物語を基軸としたシーンの区画なんてわたしの記憶の中ではジリ貧になっていた. 疲弊した意識のうちで幾らかのコマがチラついているだけだ.

というわけで, ”僕”は不眠症になった. 僕には救いが必要だった. 僕の意識は完全に世界から乖離して宙で足をばたつかせている状態だった. この浮遊感のおかげで, 目の前の風景は”コピーのコピーのコピー”の如く現実感がない. 世界への親しみの感覚を, もう一度保証してくれるものが必要だ. だが医者は苦痛への一手を処方などしてくれない. むしろ, 本物の苦痛とやらを拝聴してくるよう手抜きの啓発をしてくる始末だった. だが結果的に僕は救われたのだ(マーラ・シンガーに出会うまでの話だが).
僕は参加した精巣がんの互助グループで喪っていた地の感覚を取り戻した. 久々に踏んだ, というより抱きついた世界との接点の懐かしさで安心して僕は泣いた. それからはぐっすりだ. 僕はすっかりその癒しの味わいの虜になって, やたらめったらに色々な集会に顔を出すようになった. 結核症から血液感染症, 皮膚がん, 腎臓病, 胃がん・・・etc. なんにせよ, 僕は生き返る術を見つけたのだ. そう思ったのもつかの間, マーラ・シンガーは僕の前に現れた.
彼女は, 僕と同じで他人の苦痛をセラピーがわりにしている害虫だった. 癒しの機会を分等するための彼女との示談をしたものの, 僕の生活は相変わらず現実不感症を煽る退屈の中にあった. 世界を効率化するための方程式に乗っ取られた振る舞いを反復する. まさに, 僕自身が“資本主義社会の絶頂に関する簡潔な概要”そのものだった.

しかし転機が訪れた. リコール調査の計算のための出張(タイラー・ダーデンとも帰路のフライトで出会った)からもどると, 僕の部屋が吹っ飛んでいた. 原因は作為的なガス栓のトラブル? 偶像的なまでに, 20世紀的な幸福を抽象した僕の部屋は一瞬でフィクションダニエル・アーシャムと化した. 僕には二択しかなかった. マーラかタイラーか. 幸運にもタイラーは電話に出た. その不慮の幸運チャンスがファイト・クラブ、そして騒乱計画プロジェクト・メイヘムへと発展していったのだ.

この映画はとても忙しいそれがわたしが抱いた印象だった. 後の「ソーシャル・ネットワーク」にも垣間見える有能なナレーションによる先導だ. 語りに映像がついていくとなれば, 映像の醍醐味が失われているとも捉えられなくはないが. この手法はスタイリッシュな画の作り込みができるフィンチャーだからこそ可能なことだ. そしてその活かした贅沢によって, 目まぐるしく空虚な消費社会の映像化に成功しているのだ. そこにいつものフィンチャー的アイロニーが垣間見える.

フィンチャーが表現するのは, 落下の末にある衝突クラッシュの質感だ. すべてが一様に廃墟となる. 虚無ゼロを表す更地である. しかし, その景観には, ニック・ランド的絶望にはない”すがすがしさ”が存在するのだ.
フィンチャーが映したかったのは, 空虚な日常の断片で構築した絶望だけではない. “絶望以後”にある一縷の可能性も加味して観ることはできないだろうか. もしかしたら, 更なる絶望なんてことは有り得る話だが. わたしはこの作品, フィンチャーにしてはポジティブな部類だと思ってます. ぜひ皆さんも自身の目で”確認”してみてくださいね.

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