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《*》:多層化する戦争

現代の戦争において最も強力な力はおそらくメディアだろう。次に来るのが、物理的武力である。メディアは一国を陥とす。現代において戦争にもレイヤーがあり、多層化しているわけだ。

そんな時代における、ロシア・ウクライナ問題について、私の目は"表象戦争"とも呼ぶべき現象に向いており、それを描写する行為は、多層的な戦争に少しでも水を差す試みのなかで、ほんの一面的な役割しか担えない。だが、私たちがもっぱら目にするの、スクリーン上で振る舞っている表象たちである。私は実際に《彼ら》の具体的な表情や声音を想像にするに至るにもそこを入り口とするしかないのではないだろうか。ここでは、ロシアとウクライナ間の過去から現在に至るまでの歴史を参照するのでもなく、ある論を構築したいわけでもない。私たちの既存の認識を前提とすのでもなく、この目の前の風景に、イメージ群に寄り添う。ひいては何か小さくとも新しいイメージの創出によって、”個人の仕草”というスケールでこの荒れた風景との関わり方を模索したい。

さて、この表象戦争において、いわゆる《ロシア》と《ウクライナ》の対立構造はどのように映っているだろうか(《   》付きの言葉は”実態”から独立した振る舞いをするイメージをさすために用いている)。スクリーン上で、いわゆる《ロシア》は《ウクライナ》に《侵攻》している。そしてこの《侵攻》という言葉が喚起するイメージ群の広がりは、私たちの周辺のいたるところまで侵攻している。これは文字通りにね。《侵攻》は《気候変動》を加速させる。あるいは、《支援》のためにハッキング行為まで行われているとか。熱のこもった表象同士は、実際結びつきやすい。そしてこの表象が実態のある振る舞いを呼び込むことも事実である。鶏が先か卵が先かみたいな話なのではあるが、私たちの視線は直線で進むことはなく、スクリーンに反射して幾度となく蛇行して進み、その複雑な第三者に介入されることによって私たちの目に帰ってくる。これはプーチン大統領やゼレンスキー 大統領の振る舞いなのか、それとも《侵攻》、《戦争》、《大量虐殺》、《核》といった表象たちが加速させる《大災厄》なのだろうか。表象は世に放たれた瞬間からその所有者から独立した振る舞いをしてしまう。

そんな中、表象のレイヤーにおいてこの戦争はどんな局面を迎えているのか。私には《ロシア》と《ウクライナ》という対立構造は成り立たなくなっているように思える。ロシアはグローバルなメディアプラットフォームを停止・排除され、自らの表象たちを外へと跋扈させるための回廊はほとんど失いつつある。彼らは内へ内へとのびている狭い回廊からなんとか自国民と《ロシア》の結び目が解けないように維持している。これが解けてしまったら本当にそれは《ウクライナ》/《支援する第三者》と《プーチン》という構図になってしまう。というか実際なりかけている。これでは《戦争》というよりカタストロフ級の大火事である。

まだ中立的な表象というものも存在する。例えば《民間人》、《人道回廊》などだ。《ロシア》や《ウクライナ》という表象はこのような中立的な表象とはさらに結びつき、所有したがっている。逆に《戦争》や《大量虐殺》なんていうイメージは請け負いたくなく、それは対立項の懐に忍ばせたいはずである。この二つの《対立項》は結果的にイメージの争いにおいても《民間人》を盾に使ってしまっている。そういった意味ではある側面、《ロシア》と《ウクライナ》同等に愚かしい側面もある。私にはこの《民間人》や戦争に参加していないロシア人やウクライナ人を《ロシア》や《ウクライナ》、《戦争》に回収させないための表象争い上での《人道回廊》も必要であるように思えてならない。事実、自国への愛国心がゆえに他国民同士の食い違いもメディア上で目にすることがあるだろう。

メディア戦争において、個人というスケールで行える仕草は何かあるのだろうか。私はパッと2つほど思いつく。ひとつは上記のようないわゆる非戦領民を保護するための人道回廊的表象の提案。もうひとつは《戦争》に代わる表象の提案。もう一度口を挟むが、あくまでこれはメディア上での表象が振る舞う風景に対してのスケールの話である。私たちのほとんどがまず体験するのはミサイルの轟音を耳にすることでもなく、現地の人々の声を”直に”聴くこともできないはずだ。私たちがまず一次的も目にするのはこの《スクリーン》上での戦争である。

話は戻るが、2つ目の提案はイメージがつきやすいと思う。例えば、とある国の大統領は《対話》というアプローチを提案している。これは実務的な戦争解決手段というだけでなく、《戦争》という表象に代わるイメージの提供だとも思っている。私はこういった小さくても創造的な火消しへの尽力は、《戦争》の否定とセットで必要だと思っている。

さて、1つ目に関してではあるが、これは永遠に体制化しない記号をイメージしている。私が抱いているイメージだけでも共有できたらと思う。私は《*》という表象の提案をしたい。

-《*》どこまでいってもマイノリティとしての振る舞いしか求めない。
-《*》自体はは単独では機能しない空白の表象である。ある具体的な《顔》から発せられた所有者固有の《しぐさ》とのネットワークで初めて機能する。表象ではなく”しぐさ”である。これは明言しておきたいことである。私たちは《*》という”概念的肉体”を借りて振る舞えるだけのことである。
-私たちは《*》と責任を分散的に折半するような関係性を求められる。例えば、《民間人》という名詞をあなたがここに代入したい時、あなたはその代わりに、複数の動作を《*》に与えて同等のイメージを作り挙げていかなければならない。
-《戦争》と《*》という表象が存在するとき、前者は”普通名詞”として後者は”固有名詞”として機能する。《*》は言語と写真の間をシームレスに移動する。

かなり浮足だった話になってしまったが、これは今回のロシア・ウクライナ情勢に関することだけから思い至ったことではないのだ。マイノリティ運動を見てもそうなのだが、運動が盛んになってくると表象自体がかなり暴力的な一面を備えてきしまうことへの危惧でもある。私も《多様性》という本来はあたりまえで、柔らかく、寛容で、それでいて少し遠い世界にも感じさせるイメージが好きだ。だからこそ、それらの言葉が具体的な顔の見える個人に襲いかかるような光景も見たくない。それらは、あくまで”ただ呆然としたイメージ”であってほしい。ここから出たら”    ”引用符や《   》があなたに付いて回るわけではないのだから。


参考資料
・『ドキュメント戦争広告代理店~情報操作とボスニア紛争』(講談社文庫)著:高木徹

・『流通する言葉』伊藤計劃記録(https://itoh-archive.hatenablog.com/entry/2015/11/05/183435

・『スペクタクルの社会』(ちくま学芸文庫) 著:ギー・ドゥボール


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