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ヴォルフガング・ティルマンス『Moments of life』によるティルマンス入門

ティルマンスの写真には, 白い壁がよく似合う. そのそびえ立つ白い壁は, 格式高いホワイトキューブを連想させる. だが不思議にも壁に融ける白い額装は, 美術の崇高さよりも彼のイメージの軽快さにしっくりくる.

というわけでエスパス・ルイヴィトンでおこなわれているティルマンス展を覗いてきた.

Wolfgang Tilmansへの入門にはさまざまな扉が用意されている. この寛容さ/公共性は彼の作品群の特徴のひとつだ.  鑑賞者は各々の関心を切り口に現代写真/現代美術のフロントラインの様子を窺うことができるのだ. 表象をより深く掘っていくもよし, 写真史ハイコンテクストから入門していくもよし. こういった写真世界への入門の仕方はそれ以前の大写真家の作品では難しかったのではないだろうか. 写真を齧っている人間であれば, 写真史で参照されてきたイメージが, どのような背景コンテクストでそこに前景しているのか 把握せずに, 表象との接し方に困惑した経験があるのではないだろうか. 多様な鑑賞者への包容力が彼のキャラクターなのである.

私によるティルマンスの紹介は, 私の視線が置かれた順序を明文化していくことだ. 私はもっぱら即物的な人間なので, 展覧会にいけば目の前のイメージへ没頭することでいっぱいだ. 視線と並行して頭の中にある写真史を展開していくなどという器用さは持ち合わせていない. とにかく観察して持ち帰る. そして箱を出たあとにゆっくり考え始めるのだ.

やはり最初に視線が置かれるのは当然, 表象だ(実際は冒頭で触れた通り最初に僕を掴んだのはそびえ立つ白い壁とそのレイアウトなのだが). 正直なところ僕はいつもティルマンス(というよりもティルマンス以降)の写真における表象の触れ方には戸惑ってしまう. 彼の表象をどの方向へと掘っていけばいいのか, わからなくなる. 従来どおり, フレームの内側の表象が, どのように過去の写真史を参照し更新したかを, 見極めるだけでは不足なのは自明だろう. 周知のとおり, 彼は抜本的に写真の”規格”に触れたアーティストだ. デジタルの恩恵による拡大プリントやプリントの直張りなどが代表的だろうか. この規格の変容とそこに居付く表象が無関係であるはずがない. 表象に関する読解の問題と, 彼の”モノとしての写真”への態度を, 別途に語るわけにはいかないといつも思ってしまう.

とはいえ, まずは表象だ, 落ち着いて一歩づつティルマンス沼にハマって行こう. ティルマンスの代表的なモチーフと訊かれて鑑賞者は何を思い浮かべるだろうか. 私にとってそれは”窓辺”に関するイメージ群だ. 正直, “窓”は美術史においては完全に常套句クリシェだ. それでもわざわざ水を差すのは, それらのなかには, 彼の”ニュートラル”な姿勢(いや器用さだろうか)が表れているからだ. 古典的なモチーフであるため, かえって現代性は映りやすいのかもしれない. 彼は日頃入手した小品を窓辺に置いていくらしい. 飾るわけではなく, 彼の言葉をかりれば”そのままの状態で”置いておく. その”窓辺”は, いわば刹那刹那エフェメラルな視線の蓄積だ. ティルマンスの生活を想像すると, 全てが写真として”シェア”される準備をして佇んでいそうだ. 軽快なノリでアップされるように. そしてそれらの凝固した視線は, 私たちが共有している白い空間でも, そのまま窓辺の”機能”を果たしている.

現代の若者がプラットフォームごとの質感の差異に敏感であるように. 彼もイメージが印画紙に焼かれ写真となるプロセスを前提としてはいなかった.
ティルマンスのイメージは共有するための窓辺である. そのためには, 表象の選択だけでは不充分だったのだ. 彼は窓を覗き込むだけでなく, 少し引いてその規格を観察し, 触れ, 手を加えていった. インタビュー映像によると最初はコピー機を用いた拡大プリントだとか. その拡大された私世界を見た時, ティルマンスは何を美しく思ったのだろうか. 彼の先輩写真家であれば, そう素直に肯定的な頷きをすることはなかったはずだ. 永遠とわの命題である戦争や壊された風景のイメージが劣化した粗品として価値を発揮するなんてことは容認しきれない. 彼が看取ったのは, 90年代の消費される世界のリアリティだ. 刹那との邂逅を繰り返す,質量が失われつつあった日常の質感テクスチャだ. 彼は, 外在化した自身の所属する世代のディテールと対面した時, アーティストとしての自らの役割を悟ったのだ.

未だ拡張するティルマンスの全容の描写は, 加速し続ける競技ランナーの背中を追い続けるようなものだ. 諦念の息をつかずにはいられない. それでも, 何か彼の活動を圧縮するための気の利いた言葉はないのであろうか. 私はかなり挑戦的ではあるが, “ティルマンス以前/ティルマンス以後”と提起してみたい. ティルマンス以後の写真家にとっては, 彼は表現者としてのロールモデルというだけではなく, ある種のガイドラインなのだ. 後輩たちは, 彼の振る舞いを”読み込んで”, 自らの挑戦的な実践が”相変わらずの写真”であると気づくのだ. ここまで過剰ラディカルにやらかしても, “フツー”にそれは写真なのだ. 後輩写真家たちは, “圧縮されたティルマンス”という自身のステータスをどうディスラプションするか, そんな課題を抱えながら活動していくことになる.
デュシャンがアートの規格に悪戯して抜本的なパラダイムシフトを起こしたように, ティルマンスもデジタルの到来と相俟って写真の次元をひとつ導入したのだった.

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