終戦記念日。
今日は終戦記念日。
原爆を落とされ、命がなくなった人は、いつ亡くなったのか、が明確にあるわけだから、弔らわれる日があるし、黙祷の時間がある。
しかし、戦争中に、亡くなった人たちは、顔も名前もわからない。
いつ、どこで亡くなったのかすら。
今の僕らを作ってくれた人たちなのに。
彼らの命は、今の僕らのためにあったのだろうか。
今の僕のような人間に命を尽くしてくれたのだろうか。
当たり前で敷き詰められた視界に、幸せというものを感じられない。
ただ、ご飯が食べられて、笑っていられるだけで幸せなはずなのに。
なんのために生きているのかわからない。
と、よくつぶやいてきた。
そもそも、何かのために生きることが正解という考えが、僕の頭の中にはあるようだ。
自分のために生きて、死ねばいいというのに。
それを先人が与えてくれた、贈り物なのかもしれないのに。
人生のうち、思い悩んでいた時間の方が長かったせいか、心健やかな自分が落ち着かない。
何も考えなくて、ふわっと生きている自分を許せない。
ブルーで、暗い部屋の方が寝心地がいいし、息もしていて安堵する。
病んでいて、いいことなんてないし、かっこよくない、ダサい。
ODも、ただ死ぬだけ。
そんなことしてても、仕方ないのにね。
世界は大きいんだってさ。僕には小さく見えてるけどね。
新しい経験なんてものがあっても、心が騒ぐことなんてないしね。
世界は大きい方がいいのかもしれないけど、僕は小さいままでいいなと思う。
自分で世界を作っていく、小さな僕の世界を。
変わり映えのない日常が、等速直線運動しているだけでいい。
さて、と、
重たい腰を、ついにあげて、人生について、考える。
正直に言うなら、今すぐにでも、リタイアしたいところ。
楽しくて、幸せになっても、なにもないんだもの。
人間なんて、生まれて来なけりゃよかった、と思う側の人だもの。
しかしながら、
命を、自分のものと考えるのをやめようと思う。
この命に、使命を授けようと思う。
誰かを支えてるっていうものを。
誰かの当たり前を、幸せを、創り出すことに命を全うしようと思う。
僕は、日本国を、なんて、大志を掲げることはできないけど、
近くにいる誰かのために、戦って、生きていければいいなと思う。
ビジネスサイドにいて、感じられなかったもの。
その理由がわかる気がする。
もし、自分がいなくなっても、誰か他の人がやってくれる。
それが組織化であり、ビジネスというものだ。
でも、僕は僕にしかできない、僕がいなけりゃ、困る。
そういう命のあり方がいい。
だから、今やっていることをこれからもやっていこうと思う。
何もワクワクしないし、何も楽しくないけど、心は喜んでいると思うから。
終戦記念日はいつか、という答えがわからないということも、贈り物なのかも知れない。
与えられた当たり前を、当たり前として生きている。
それもそれで、先人に、恩を返すことができているのかもしれないや。