神の創造物
一人で丁寧にご飯を食べているときは、
自分につながりやすくなります。
自分につながると、
悩んでいたこたえが返ってきたり、
直感が湧いてきます。
この湧き上がる【神の視点】のこたえに
私は深く感動し、
涙が込み上げてきます。
たとえば、
自分で料理したときなど、
自分のつくった料理のおいしさに感動し、
「こんなにおいしい料理をつくった自分、最高!」
って思うけど、
でも、もっと言うと、
「そんな素晴らしい経験をさせた、
そんな素晴らしい現実を創った自分最高!」
という気分になります。
今日のお昼、
会社の食堂でご飯を食べていました。
こんなにおいしい水餃子が食べられて、
幸せだと感じていました。
そうすると、次第に、
このおいしい水餃子を創造した
【神の意識】の私に、
感動が込み上げてきました。
世界は自分の思い込み通りに、
完璧に創造されていることに
深く感動し、
涙が込み上げてきました。
目に映るもの、全て、
自分が創ったってすごすぎます。
炊飯器の底に残っていたご飯のカピカピこげめも、
中途半端にカットされたオクラの形も、
不完全っぷりが完璧に創造されていること。
食堂の外に出ると、工場の敷地内では、
いつも通り完璧に、フォークリフトでモノを運ぶ姿が見えて、
その運んでいる工業物に対して、
いつもは何とも思わないのに、
今日は「なんて美しく輝いているの!」
と感動したり
(思い出すと、また泣けてくる)、
塗装がはげかけた横断歩道も、
完璧すぎて、美しいし、
いつも無愛想なあの人は、
今日もいつも通り完璧に、
無愛想に振舞っているし、
トイレで自分の生理の経血を見て、
身体も完璧に、動いていることに感動し、
私が掛けているメガネも、
これも自分の意識が創ったと思うと、
目に映る全てに対して、
その完璧な美しさに、
ただただ感動しました。
私が嫌悪している、自分の思い込みにある「劣等感」「さみしさ」「罪悪感」など、
これらも、全部ぜんぶ、
自分の思い込み通りに、
現実として投影され、創造されています。
これら「劣等感」「さみしさ」「罪悪感」というネガティブ感情も、
「楽しい」「うれしい」というポジティブな気持ちになる感情と同様に、
とても美しいものです。
どちらも創造できる私。
なんでも創造できる私。
じゃあ、その上で、
「私はどう生きたい?」
と自分に問いました。
「幸せを感じて生きたい」
「楽しく生きたい」
と返ってきました。
私は、私の中にある【神の意識】を感じ、
とても満たされた気持ちになりました。