人間の大半はいらない
例えば消火器。使う時は火事になった時。
できれば消火器は使わない方がいい。だけど、消火する能力は必要。
同じように、消防や警察もできれば出動しない方がいい。
どこかの政治家が「自衛隊は国民に高く評価されている」と言っていたが、自衛隊が高く評価されるのは、自衛隊が出動しなければいけにような大災害が起きているか、どこかの国で紛争が起き、派遣されている時。国民にとっては不幸でしかない。
このように、人間が必要となるのは、不幸がある時が多く、幸福を望むなら人間は大半が必要ない状態のほうがいい。
だからと言って、死ねばいいということではない。
消火器がなければ、いざという時、火が消せない。火事は起きないだろうという楽観的な考えは、それこそ不幸を招く。
消防や警察も残念ながら、出動することが頻繁にある。だが、その他の公務員は一人もいらない。
公務員のやっていることは、公共事業を入札して企業へ丸投げ。申請手続きに来た人のサポートをするのが役目のはずが、申請書類を渡すだけ。極めつけは、生活保護を申請しに来た人を門前払い。そもそも、個人情報を管理しているはずのお役所で申請しなければいけないことのほうが仕事の怠慢。
人を介さないコンピュータで個人情報を管理し、支援が必要な人には申請なしで、すぐに支援ができるようにすればいい。
最後のセーフネットである生活保護の申請が受理されないということは、「死ね」ということ。だから、自殺するか拡大自殺で他人を巻き込むしか選択がない。これは政府が人殺しをしているのと同じ憲法違反。
そもそも生活保護の前に、生活困窮者には住宅家賃の無料化、医療の無償化、食費の無料化などを個別に支援し、それらでも生活が改善しない場合、生活保護が受けられるようにするべきだ。
日本国憲法は、国民主権が前提で各条文が成り立っている。国民の主権が守られないのであれば、各条文は意味をなさない。
みずから奴隷になりたがる人がいる。ワーキングプアや派遣社員ばかりではない。自分は、正社員で賃金も生活が楽になるぐらい貰っているという人。では、独立して仕事ができるだろうか?
籠の鳥は、エサが貰えて何不自由のない暮らしができる。だけど自由に空が飛べることを知らない。これは奴隷と同じ。
こういう人たちは、将来仕事を失う。
人工知能、ロボット、3Dプリンタの高度化で、ほとんどの仕事がなくなる。仕事を奪われると考えるのは間違いで、今まで、人間しかできなかったから「しかたなく」人間がしていただけ。そのため、無駄な商品を大量に作り、資源の無駄、環境破壊が起こった。
仕事を趣味にしている人は、別の趣味を見つけるしかないだろう。
いずれ戦争も人工知能によるロボットやドローンだけの物を壊す滑稽な戦闘になる。これを禁止しようとする政治家は、国民を死に追いやる殺人政治家となる。もっともたとえ防衛だとしても戦争を考える政治家に外交能力はなく政治をする資格はない。
そもそも政治家は必要なのか?
議員は与党だけにすればいい。議論したところで、最後は多数決で決めるのだから、野党は必要ない。そのかわり、3年に一度、国民が政治の総点検をする。不要な法案が成立していないか、税金の流れに問題はないかを聖域なくすべて公開する。もし不正などがあれば賠償してもらい、議員報酬もなしになる。そのうえで総選挙をし、与党を決める。
もし、立候補する者がいなくなれば、国民が直接政治をすればいい。(この時、皆が必要な存在となる)
国民がする政治はシンプル。まず、問題の解決方法を提案してもらう。その提案に優先順位を決めて、シミュレーションや実証実験などで、効果のありそうなものを採用すればいい。
私は、映画やドラマの無駄なシーンをカットして楽しんでいる。たいていは、脇役が必要ないのだが、たまに主役が必要ないことがある。しかし、絶対にカットできないのはエキストラの存在。エキストラがいないと、映像にリアリティがなくなり、シュールなものとなる。いらないはずのものが実は必要ということもある。
伊丹十三脚本、監督の映画「タンポポ」は、未亡人の主人公が人気のないラーメン店を繁盛店にしようと奮闘するストーリーだが、ストーリーとは関係ない料理のうんちくをひけらかすシーンが随所にちりばめられている。これらのシーンをすべてカットし、ラーメンに関係のあるシーンだけにして観ると、全然面白くなくなる。
必要ない。だから無くせばいいということではないことがよく分かる。
こうしてみると、天国ははたして楽園だろうか?
何でも手に入り、何不自由のない世界は、自分は必要ないということ。まだ、地獄のほうが役に立つことがあるかもしれない。
だから、今の世の中は地獄なのだろうか?
終わり