死間 -赤穂浪士にならなかった男-
元禄14年3月19日午前
播州赤穂の赤穂城に早かごが到着した。
この月の14日に江戸で起きた主君、浅野内匠頭の江戸城刃傷事件を知らせるためだ。
通常7日程度かかる距離を4日半程度で赤穂に着いている。
他藩でも同じようなことができるのかどうかは分からないが、少なくとも赤穂藩は、情報を重要視していたことがうかがえる。
すぐに総登城の命令があり、家臣たちが登城した。しかし、この時の情報では詳しい経緯などは分からず、後日の情報を待つこととし、解散した。
この時、すでに江戸に旅立った男がいた。
元禄11年に改易になった備後福山藩の元藩士と偽り、浪人姿となった新保唯九郎だ。
赤穂藩城代家老の大石内蔵助は、山鹿流兵法の祖である山鹿素行に教えを受けている。
山鹿素行には「孫子諺義」という著作があるが、孫子が最も重要視したのが情報だ。
特に間者を用いることが勝敗を決する決め手になると考えていた。
間者には、敵の周りにいる人を使う郷間、敵の身内を使う内間、敵の間者を逆に利用する反間、敵の内部に侵入し、敵に偽の情報を流してかく乱したり、捨て身の攻撃をする死間、敵の情報を持ち帰る生間がある。
唯九郎はその中の死間だった。
播州赤穂を立ってから6日目に、唯九郎は江戸に到着した。そして、すぐにめし屋に入った。それは、庶民の間でも刃傷事件が話題になっているかを知るためだ。
めし屋の隅では、喪服姿の集団が、しんみりと酒を飲んでいた。
座った唯九郎の所に主人が注文をとりに来た。
「めしとかずを2、3」
唯九郎の注文する声に、喪服姿の集団の一人の男が気づいて、わざと聞こえるように話し始めた。
「生類憐みの令。いい法度だよ。捨て子をしちゃぁいけない。そりゃそうだ。誰が好き好んでかわいい我が子を捨てるもんかい。法度を作る前にやることがあるだろうが、ええ、そうだろう」
別の一人の男が、唯九郎の所に申し訳なさそうにやって来た。
「どうもすみません。悪酔いしてるんで、ご勘弁願います」
「葬式があったみたいだが」
「へい。一家心中でして。捨て子ができないもんだから・・・。まだ生まれたばかりの子を土にかえさなきゃいけないなんて・・・。すいやせん」
「そりゃぁ、気の毒なことをした」
今日、生類憐みの令は、犬猫を保護する法度のように伝わっているが、この当時、増えていた捨て子を防止するのが主な目的だった。
元禄太平といわれ、庶民の暮らしが良くなっている一方で、貧富の格差が広がっていたのだ。
唯九郎は、会話している間に主人が持って来ためしを食いながら男に聞いた。
「ところで、江戸城で刃傷沙汰があったそうだが」
「ええ、そうらしいですね。これでまた犬公方様(徳川綱吉)のご機嫌が悪くなって、こっちにとばっちりがありゃしないかと、皆、ヒヤヒヤしています」
めし屋を出た唯九郎は、城下を聞いて回ったが、庶民の間では、一時的に話題になった刃傷事件もすでに下火になっていたようだった。
赤穂藩上屋敷についたが、赤穂藩士はすでに追い出された後だった。
なんとか探して、やっと堀部安兵衛の所在が分かった。
高田馬場の決闘で知られる堀部安兵衛は、名を長江長左衛門と偽り、林町五丁目の紀伊国屋店に剣術道場を開く準備に追われていた。
剣術道場なので、浪人が出入りしても怪しまれない。
唯九郎も近くの長屋を拠点として、しばらく活動することにした。
剣術道場が開いて、しばらくして唯九郎は安兵衛を訪ねた。
安兵衛の情報によると、「刃傷事件の相手は高家肝煎で、勅使饗応役の浅野内匠頭らを指導する礼法指南役の立場にあった吉良上野介。吉良は刀傷はおっているが生きている。今、赤穂藩では、浅野内匠頭の弟で養子となっていた浅野大学に家督を相続させ、お家再興を嘆願しているので、軽挙妄動は慎むように」とのことだった。
当然、安兵衛は納得していない。
「何がお家再興だ。ご主君は即日、庭先で切腹させられたのだぞ。相手の吉良は、刀傷をおっただけで、お咎めもなく生きている。仮にご主君に落ち度があったにせよ、最高責任者は高家肝煎の吉良だ。このような失態を起こして礼法指南役がなんの咎めもないとはどういうことだ。こんないい加減な裁断をするご公儀が、お家再興など認めるはずがないではないか」
「確かにそうだ。ご城代(大石内蔵助)が、こんな道理が分からないはずはない」
「いや、あの昼行燈(大石内蔵助)は、逃げ腰なんだ。江戸で起きたことを知らないのは仕方ないが、ただの木っ端役人で武人じゃない」
「安兵衛殿は赤穂藩士になって日が浅いから知らないだろうが、ご城代の昼行燈には世間が言う意味とは違う意味もある。昼夜関係なく何事にも常に目を光らせているから昼行燈なんだ。だからこれには深いお考えがある」
「そりゃなんだ。俺にはさっぱり分からん」
「それなら、とにかく軽挙妄動は慎め。だが、このままだとわしは吉良のひざ元へは行くことができん。いつも吉良の首を狙っているという噂は広めんと。世間はもう刃傷沙汰など忘れているようだ」
「それは違う。ご主君のしたことは下剋上の兆しと思う者が多い。権力を振りかざす者に一矢報いたと同情しているのだ。火の粉はまだくすぶっている」
「そうなのか。では、少し焚きつけてみるか」
唯九郎は、安兵衛としばらく計略を話し合って別れた。
安兵衛の言う通り、火の粉はくすぶっていた。それは幕府の内部から大きな炎となりつつあった。
ただでさえ改易になる藩が多い時世に、たいして調べもせず即日、切腹させられ、改易になる。これでは、ちょっとした言動でも処罰されかねない。
浅野内匠頭のしたことは「窮鼠猫をかむ」だったのではないか?
猫は可愛がるが忠臣は殺される。それが生類憐みの令なのか?
可愛い猫(吉良上野介)は今や疫猫神になりつつある。
当の徳川綱吉は、大石内蔵助が赤穂城開城の時に、荒木政羽らに願い出た浅野家再興に悩まされていた。
当然認めることはできないが、その後送られてきた嘆願書には、「浅野家再興が叶わなければ、何が起きるか分からない。離散する元藩士を説得することは難しい」といった趣旨のことが書かれていた。
確かに、浪人となった者たちが何をしでかすか分からない。不満の矛先が幕府に向かうのは目に見えている。そこで、綱吉は吉良上野介に隠居を勧めることにした。しかし、吉良は拒否した。権力の甘い汁にどっぷりとつかった者が、やすやすと手放すはずはない。それでも、しばらくして高家のお役御免を申し出ざるおえなくなった吉良は、呉服橋門内の屋敷も返上し、本所に移った。
綱吉は、吉良を遠ざけることができてほっとしたが、赤穂藩の浅野家再興の件はしばらく保留とすることにした。時間がたてば、元藩士も他藩へ仕官したり、生活の安定を考えなければならず、不満もおさまるだろうと考えた。
唯九郎は、吉良が本所に移ったことを知ると活動を開始した。吉良の屋敷周辺の住民らに「浅野の家臣だった者らが吉良を襲いやすくなった。こりゃぁ、ひと騒動ありそうだ」という噂を流した。
誰でも自分に災いがおよぶとなれば不安になり、伝染していく。吉良邸の周辺は他人ごとではなくなった。
やがて吉良の耳にも噂は入っていく。しばらくして、浪人を雇い始めた。
唯九郎は、数人の浪人にまじり、吉良邸に入った。そこで待っていたのは清水一学。
一学は浪人相手に真剣勝負をしていた。しかし、実際に切り殺すわけではなく、寸止めしたり、みねうちをして剣の腕前を試していたのだった。
唯九郎の番になった。
一学は、半眼で剣をかまえ、唯九郎に言った。
「俺を殺せ」
唯九郎は、少し武者震いして剣を抜き、一学に切りかかった。
ひらりとかわす一学。
そこに突きを試みる唯九郎。
唯九郎の体勢が崩れたのを観た一学が、上段から剣を振り下ろし、寸止めして勝負は終わった。
「我流だな。剣の腕前はたいしたことはないが、何か特技でもあるのか」
一学の冷めた言葉に、唯九郎は、何とかしなければと、とっさに言葉がついてでた。
「最近剣を使う機会がないものでのう。拙者はここ、知恵が働く。例えば、この屋敷。見るからに無防備。拙者の城造りや武家屋敷造りの経験が生かせると思うのだが」
「確かに、この屋敷はまだ手つかずの状態だ。引っ越して間もないのでな。しかし、敵が屋敷に侵入するとはかぎらん。今は、剣の腕前が重要と考えるが」
「ごもっともではあるが、そこが敵の狙いかもしれん。どんな隙もないにこしたことはあるまい」
「もちろんそうだ。俺はそっちには疎い。殿にお伺いせねばならん。しばらく待たれよ」
そう言うと一学は、別の浪人の相手をし終わったばかりの家老、小林平八郎に耳打ちした。
平八郎は、唯九郎をじろっと見ると屋敷に入っていった。
一学は、残っていた数人の浪人の相手をし、簡単に片づけると、屋敷に入った。
しばらく時間がたって、屋敷から一学が出て来て、唯九郎に伝えた。
「屋敷のことはそなたに任せるが、少しでも殿の気にさわるようなら、そっこく辞めてもらう。その時は報酬もなしじゃ。それでよいか」
「もちろん。お任せくだされ」
そう言うと、唯九郎はすぐに屋敷をあとにした。
唯九郎は、住処の長屋に帰ると、親しくなった近所で、大工のつてを聞き、大工元締めの平兵衛に会うことにした。
平兵衛は、唯九郎の話を聞くと、けげんな顔をした。
「気に入らねえな。吉良といや、気難しいご老体で、江戸城の刃傷沙汰もそのご老体がいびって起きたと噂されてたぜ。権力かさにきてる奴に手を貸すことはできねえな」
「そこなんだよ。吉良は、いびられるのを怖がった大名から、しこたま金を巻き上げてたらしいんだ。その金を全部、吐き出させるために、元締めの力を借りたいんだよ。大工を大勢集めて、材料なんかも贅沢なものを使い、その分、普通よりも高値の報酬をふんだくってほしいんだ」
「あんた何者なんだ。吉良の家臣じゃないのか」
「吉良には雇われたが、義理があるわけじゃない。俺も報酬をごっそりもらうつもりだ。それが、この時世を、生類憐みの令なんて、くだらない法度を作るご公儀に対する抗議になるんだよ」
「ご公儀に、けんかを売るつもりかい。面白そうじゃねぇか。よし、いっちょやったろうじゃないか」
翌日、吉良邸に集まった、平兵衛と大勢の大工たちが短期集中の改築工事にとりかかった。
屋敷は、迷路のように複雑になり、気をよくした吉良は、茶室などもしつらえるように命じた。
短期間とはいえ、資材は一級品ばかりで、その出来栄えは、将軍の屋敷でもかなわないと思えるほどだった。
唯九郎の狙い通り、大工たちには破格の報酬が払われ、吉良の財産を減らす結果となった。しかし、まだかなりの財産が残っている。そこで、家の周囲に、雇った浪人たちが寝泊まりする長屋のような建物を建て、城壁とするように勧めた。改築熱が高まっていた吉良は、それは良いと、さっそく大工たちに命じた。
しばらくして、吉良邸内があわただしくなった。それは、大石内蔵助が江戸に向かっているという知らせがあったからだ。
唯九郎は、住んでいた長屋から吉良邸の周囲に新しく建てられた長屋のような浪人詰め所へ移り住んだ。そこに新しく雇われた浪人たちがぞろぞろ押し寄せるように入ってきた。
唯九郎たち浪人は、ほとんど外に出ることはなく、吉良上野介を守るべく警戒にあたった。そのため、浪人たちの食費なども膨大になっていった。
大石内蔵助が江戸へ到着した時、緊張が最大になった。しかし、内蔵助は、亡き主君、浅野内匠頭の墓参りや知り合いへの挨拶回りなどをしているだけだった。そして、重要な目的は、瑶泉院となった内匠頭の正室、あぐりの元へ行くことだった。
瑤泉院が嫁入りした時に持参した「化粧料」の一部を返納した内蔵助に対し、瑶泉院は、何かのたしにと、300両を内蔵助に預けた。その何かとは、内匠頭の無念をはらすためだということは、内蔵助にはすぐに分かった。
しばらく考えた内蔵助は、その金を預かり、瑶泉院の思いを受け止めた。
内蔵助は、江戸住まいをしている浪士たちにも会ったが、うまく生活している者もいれば、貧困に苦しんでいる者もいた。その誰もが、もう武士とはいえず庶民となっていた。貧困で苦しんでいる者には、金を融通した。そして、内匠頭の無念をはらす決意を伝えたが、それにはまず、浅野家再興が最優先だという筋は変える気はない。今動けば瑶泉院様へ害が及ぶので、軽挙妄動は慎むようにと何度も繰り返した。
吉良邸では、大石内蔵助が江戸を発ったという知らせを聞いて、安堵した。しかし、警戒をといたわけではない。誰かが何かしでかしそうな雰囲気は漂わせていた。それは、庶民の間で、吉良上野介暗殺の噂がにわかに広まっていたからだ。
幕府へもその噂は届いていた。そこで、吉良上野介に再三、隠居するように促した。ついに12月になって、上野介は隠居し、養子の左兵衛義周が家督相続した。
こうして、この年は何事もなく、終えた。
吉良上野介が隠居したことで、収入が激減し、浪士たちの報酬は減らされ、食事も質素になっていった。その不満のはけ口は周りの住民に向かい、警戒を理由に虐待することもしばしばあった。それでも住民は抵抗することも訴え出ることもできない。
権力はますます弱い立場の庶民を苦しめ、天下泰平は名ばかりとなっていった。
そんな中で、浅野内匠頭の命日が近づくと、警戒はさらに厳重になり、周りの緊張が高まった。庶民の中には、何かが起きることを期待する者も多かった。
そして、その日が来た。
吉良邸はもちろん、幕府も警戒を厳重にした。
浅野内匠頭の墓に近づく者がいれば、役人が立ちふさがり、身元を問いただしたうえで引き帰らせた。
庶民の期待に反して、この日、何事もなく過ぎていった。この日を境に庶民の失望が広がり、何も変わらない世の中に諦めと、持っていき場のない虚しさがあった。
徳川綱吉は、この成果に喜び、もう抵抗する者は誰もいないと自信をつけた。そして、浅野家再興を許可せず、浅野大学を広島浅野本家の預かりとした。
大石内蔵助は、事実上、浅野家とは何の縁もなくなったこの時を待っていた。城代家老という重責から解き放たれて、初めて自由を得たような気軽さを感じた。
内蔵助は、元服したばかりの長男、主税と二人だけで江戸へ向かうつもりでいた。しかし、どうしても着いて行くという同志たちがいて、しかたなく大人数の出立となった。そのため、どうしても目立ってしまうので、垣見五郎兵衛という偽名を使って宿に泊まった。
その頃、吉良邸では、来年に上野介が江戸から離れることを決意し、挨拶回りなどに忙しかった。これには、財産が底をつき始め、江戸での生活が維持できないという事情があった。
唯九郎たち浪人も今年いっぱいで追い出される。皆、何も起きなかったという安堵と、この先の生活の不安があり、複雑な気持ちでいた。とりあえず、楽して報酬を得ることができたので不満はなかった。
大石内蔵助たちは江戸に到着すると、堀部安兵衛たち、江戸での同志と密かに合流した。
「いよいよ悲願達成の時が来た。しかし、もう一度、念のために確認しておくが、我らのなすことは、決して許される行為ではない。これを行えば、市中引き回しの上、打首獄門(さらし首)になり、家族にも災いがおよぶ。今ならまだ辞退しても決して裏切ったとは思わない。むしろそうして欲しいと願っている。どうか、よくよく考えてもらいたい」
内蔵助のこの言葉に、動じるものはいなかった。
「では、決行の日は、12月14日とする。例年、12月13日はどこも大掃除をする、正月事始めとなり、したがって、次の日、14日に上野介が邸宅にいる可能性は高い。また、14日は亡き主君の月命日、この日をおいて他にない。なんとしてもこの日に上野介を邸宅にくぎ付けにする工作をしていただきたい」
天の時、地の利、人の和を重要と考えるのは、孫子も山鹿流兵法も同じ。
吉良邸の図面を手に入れて、入念に調べ上げているのもそのためだ。
この日を境に、同志たちは接触を絶った。当日まで、誰かが逃げ出すかもしれない。しかし、それを説得する必要はないし、咎めることもない。それだけ、今行おうとしていることは許されないことなのだ。
元禄15年12月14日。
吉良邸では、茶会が開かれるため、吉良上野介の知人が多く立ち寄った。
唯九郎たちは、いつものように浪人詰め所で、いつもとは違うご馳走を食べた。おそらくこれが、最後の贅沢となり、後は追い出されるだけと、誰もがやけ食いをしていた。
深夜、唯九郎たちが眠っていると、戸口付近からドンドンという音がした。それは、戸に鎹(かすがい)が打たれる音だった。
戸に鎹を打ったからといって、蹴破れば簡単に外に出られる。目を覚ました唯九郎は、すぐに刀を取り、誰かが戸を蹴破って出ていけば切り殺そうと身構えた。しかし、目を覚ました誰もが動く様子はなく、唯九郎と同じように身構えているようだった。どうやら、考えていることは皆同じで、外で何があっても動く気はない。むしろ、吉良上野介に味方する者がいたら、切り殺すつもりでいた。それは、唯九郎と同じように死間だったのか、大石内蔵助あたりに頼まれていたのか、本人が勝手に赤穂浪士に味方しているのかは分からなかった。
外から「火事だ」と言う叫び声と半鐘(はんしょう、小型の釣鐘)に似た音が聞こえた。
吉良邸の屋敷を取り囲んだ赤穂浪士は、総勢47人。皆、火消し装束で待機し、屋敷から出て来て、抵抗する者は切り倒し、無抵抗の者は、捕らえた。その後、屋敷に押し入り、部屋にいた上野介の家臣たち数人と切り合いが始まった。
闘いは1時間足らずであっけなく終わり、切り殺した者たちを庭に並べた。そこへ、捕らえた上野介の家臣を連れて来て、上野介がいるかどうかを首実検させた。赤穂浪士の中には上野介の顔を見た者がいなかったからだ。それだけ、身分が低い者や江戸とは縁のない者がほとんどの集団だった。
捕らえた家臣が、一人の老人を指さし、上野介だと確認された。
大石内蔵助は、皆に後片付けをするように命じ、特に火の不始末がないようにと念を押した。そして、寺坂吉右衛門を呼んだ。
寺坂吉右衛門は、討ち入りに参加している吉田兼亮の家臣で3両2分2人扶持の足軽だった。
「吉右衛門、そなたは瑤泉院様の所へ行き、殿のご無念をはらすことができたと知らせてくれ。その後は、浅野大学様など、殿とゆかりのある方へ知らせるのだ。その恰好では、皆様へ害が及ぶ。普段着に着替えていくのだぞ」
内蔵助に命じられた吉右衛門は、すぐに吉良邸をあとにして、命じられたとおりに知らせて回った。
皆が後片付けをしている間、大石内蔵助は北隣りの土屋主税、本多孫太郎、東向かいの牧野一学の屋敷へ行った。
「我ら、元赤穂藩の浪士、拙者は大石内蔵助にございます。夜中に騒動を起こし、誠に申し訳ございません。火事は起きておらず、こたび、我が主君、浅野内匠頭の無念をはらすべく、吉良上野介を打ち取りにまいりました。この後は、主君の墓前に上野介の首を供え、幕府の裁断を仰ぐつもりでございます。なにとぞご容赦くださりませ」
その言上に、隣家の三人は納得し、むしろその労をねぎらった。
大石内蔵助としては、自分たちの行動が間違って伝わることを恐れたのと、単に一人の老人を殺害したことにとどまらない、ご公儀に対する意思表示だということをできるだけ多くの人に伝えておきたかったのだ。
吉良邸の後片付けが終わると、46人は、浅野内匠頭の墓のある泉岳寺へ向かった。
唯九郎たちは、屋敷の物音が静まった頃に、戸を蹴破って外に出た。
屋敷には多少の痛みはあったものの、きれいに直され、庭には死体が整然と並べられていた。その中には、清水一学の死体もあった。
何もかも終わったことを悟った唯九郎たちは、それぞれ屋敷をあとにして、方々に散らばっていった。
瑤泉院などへ知らせて回り終わった寺坂吉右衛門は、すぐに番所へ駆け込み、吉良邸の討ち入りに自分も参加していたと自首した。しかし、番所はその後、大石内蔵助らが
大目付の仙石伯耆守邸へ自首し、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の邸宅に割り振られて、預けられていることを知り、寺坂吉右衛門が討ち入りに加わったかどうかを聞き取ったが、誰もが討ち入りの前に逃亡したと証言したことで、罪に問うことはなかった。
吉良邸討ち入りの報告を聞いた徳川綱吉は、頭を抱えた。
本来なら、46人を町人扱いとし、市中引き回しの上、打首獄門(さらし首)が妥当だろう。吉良上野介は隠居したが、後を継いだ養子の左兵衛義周の邸宅でもある。その武士の邸宅を町人が襲ったのだ。これが当然の処罰だろう。しかし、これだと町人が徒党を組んで武士を襲うことが頻発しかねない。ただでさえ、町人の不満は高まっているのだ。厳罰にしても見せしめとしての効果は薄い。
現に、昼頃になれば、町人の誰もがこの討ち入りのことを知り、驚きとともに涙して喜ぶ者もいた。
町人の英雄という印象は何としても避けたい。
だからといって、武士や浪人扱いするのにも問題があった。すでに浅野家は断絶させてしまっている。これを間違いだったと認めるようなものだ。
この頃、唯九郎は、林鳳岡邸を訪問していた。
林鳳岡(はやし ほうこう)は儒学者の林羅山の孫にあたり、綱吉の信任が厚かった。
鳳岡は、使用人から「元赤穂藩士が訪ねて来て、会いたいと言っている」と聞き、すぐに座敷に通すように命じた。
座敷に通された唯九郎は、鳳岡が座るとすぐに話し始めた。
「こたび、吉良邸で討ち入りがあったことは、すでにお耳に入っていることと存じます。この件の首謀者は、亡き主君、浅野内匠頭にございます。どうかご留意のほどよろしくお願いいたします」
「なるほど、そうであったか」
鳳岡は、少し考えたが、唯九郎の言いたいことが、おおよそ分かった。
唯九郎が帰った後すぐに、綱吉からの呼び出しがあった。
江戸城では、すでに荻生徂徠(おぎゅう そらい)が待っていた。徂徠は鳳岡に儒学を学び、父親が綱吉の侍医をしている。綱吉の側近、幕府側用人の柳沢保明に仕え、こちらも信任が厚かった。
鳳岡は徂徠の横に座り、綱吉の来るのを待った。
綱吉に呼ばれたのは、吉良邸の討ち入りについてだということは、二人とも承知していた。綱吉が来るとすぐにその議論が始まった。まず、徂徠が発言した。
「こたびの件は、法に照らせば、市中引き回しの上、打首獄門。しかし、世情を考えれば、寛大なご処分も許されるのではないかと思われます。ご公儀の威厳を保ちつつも温情のあるご判決がよろしいのではないでしょうか」
これに対して、鳳岡は別の見地から話を始めた。
「上様には、こたびの件、誰が首謀者とお考えでしょうか。もし大石内蔵助ならば、主君の敵討ちとなりましょうが、敵討ちをしたいのは吉良側ではないでしょうか。これでは逆恨みとなり不義です。もし首謀者が亡き浅野内匠頭だとしたら、大石内蔵助らは亡き主君の成し遂げられなかったことを引き継いだと考えられます。子が父の跡を継ぐのは孝行にございます。こたびの件は義で考えるのではなく孝で考えるのがよろしいかと思います」
綱吉は、二人に問いただした。
「では、どのような処罰が妥当と考えるか。申してみよ」
「遠島(島流し)でよろしいかと思います」
この徂徠に対して、鳳岡は、「主君、浅野内匠頭と同じ、切腹させるのがよろしいかと思います」
綱吉は、二人の考えに共感したものの、まだ悩んでいるようだった。全員を遠島にするのか、大石内蔵助だけに切腹を命じて、他を遠島にするのか、全員に切腹を命じるのか、瑤泉院や浅野大学など他に首謀者となりうるものはいなかったのか。こうしたことを入念に調べようと考えていた。
一方、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4家に預けられた浪士たちは、本来なら、町人の罪人だから厄介者であり、その通り一時は冷遇されていたが、日がたつにつれ賓客のような待遇となった。幕府が結論を出すのを長引かせたため、流れが変わっていたのだ。大石内蔵助らには、毎日、武士並みの料理が用意され、なに不自由のない生活を送っていた。
庶民の間から、赤穂浪士は減刑されるのではないかとの噂が広まり、幕府内からも減刑嘆願の声が高まる中、綱吉は決断した。
大石内蔵助以下46人は、預けられていた4家で切腹と決まった。
さらし首になると覚悟を決めていた全員が歓喜した。ご公儀の考えを曲げさせることができたことに喜んだのだ。
武士ではなくなった46人を武士と認めて、名誉ある死を与えたことは、綱吉の浅野内匠頭への裁断が間違いだったことを意味していた。その証拠に、吉良家はお家断絶となり、生き残った吉良義周は信濃高島に遠島となった。
元禄16年2月4日
大石内蔵助以下46人は、主君、浅野内匠頭と同じように、庭先で切腹した。
これにより、幕府の威信は失墜し、武士の権力は弱まり、町人が次第に力をつけていくことになった。
唯九郎は、すべての仕事を終え、畠山修理の江戸屋敷に入って行った。
畠山修理は、吉良上野介の実子で、上杉家に末期養子として迎えられた上杉綱勝の家臣。
江戸城での刃傷事件の時、上野介の補佐役として、品川伊氏と共に担当。負傷した上野介を運んだ。
かつて徳川綱吉に疎んじられ、拝謁を禁じられた苦い経験がある。
上杉家は、謙信以来、義を尊んできたが、綱勝の代になり廃れ、上野介の権力をかさにして金をむさぼる親譲りの悪癖で、米沢藩の財政は悪化していた。
修理は、何とか財政を立て直そうと奮闘していた。その一つ、米沢藩は塩が取れないので、その仕入れを各地に探し、赤穂の入浜式塩田の塩が質が良く安いと知り、仕入れた。その縁で、唯九郎を派遣していたのだ。
派遣された唯九郎は、浅野内匠頭が謙信にも引けを取らない、義に厚いことを知り、家臣同然となっていた。
唯九郎は、修理のもとにひざまずき報告した。
「殿、手はず通り、すべて済みましてございます」
「そうか。ご苦労であった。こうでもしなければ、ご公儀や上様をお諫めすることができないとは、情けないことだ」
社会の実状を把握せず、行き過ぎた法整備をした徳川綱吉。それをいいことに権力を振りかざした吉良上野介。そうした状況を現場で体験し、我慢ができなかった浅野内匠頭こそ、偶然、死間となったのだ。
死間とは、敵の内部に侵入し、敵に偽の情報を流してかく乱したり、捨て身の攻撃をする間者のことだ。
終わり
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