アメリカで暮らしてたらいつの間にかバイリンガルになっていた話(一個人の経験です)
タイトル見てそんな簡単にバイリンガルになれたら苦労せんわ、って思った方、正解です。
「とりあえず海外住んでみたら言語習得できるでしょ」などと言われた日には寧ろイラッと来てしまう人間なんですが、そんな自分がどうやって習得したのかを一行で表すと何故かこうなってしまったんです。
一行超えで説明してみた
もう少し真面目に説明すると、
「身内の都合で自分の意志と関係なく幼少期に米国に渡り、日本語を話す場が自宅で家族とのみでそれ以外がほぼ全部英語の環境に3年ぐらいブチ込まれた結果やや無理やりバイリンガルにされた」
と、いった具合です。
見事に他責思考全開な言い分なのですが、とはいえ齢4歳だか5歳だかの頃に起こった話なのでそこは大目に見てやってください。
ともあれ、蓋を開けてみれば「言語習得は幼少期からの方が吸収が早い」「英語(に限らず外国語)だらけの環境にどっぷり浸かってしまった方が学習する上ではいい」などなど、ややありふれた話が結局自分にも当てはまったという話です。以上、ちゃんちゃん。
そんな終わり方あるかい。からの、渡米に至るまで
上記で〆てしまっても嘘は言ってないんですが、とはいえアレで終わらせてしまうのはつまらないですし、実際のところそれだけの話でもないので。
渡米に至るまでは上述の通りでそれ以上掘り下げようがないんですが、特筆すべきことがあるとすると、とにかく母には全く頭が上がりません。
初めてのアメリカ生活を送ることとなったのは、今も昔もほぼニュースなどで話題に上がることが無いド田舎で、辿り着くには少なくとも2回以上は飛行機の乗り継ぎが発生しました。
その折、父が単身先行して渡米し、その数ヶ月後に残された我々が追いかける形となったのですが、言葉が通じない時点で既に難易度ハードは超えているというのに、幼稚園児と生まれて間も無い赤ん坊の2人を連れての飛行機移動とか(詳しい話は割愛しますが)どんな難易度エクストリームですか。
なおこの辺り、今でこそ声を大にして言いたいことは、会社のご厚意でお高めの席に座っていたらしい我々に嫌味な暴言を吐いたらしい某航空会社のCAにはひたすらタンスに足の爪先という爪先をぶつけまくっていてほしいってことです。いや今更ですけど。
そんなことより英語を身につけた話
母にこれほどの苦労を味わわせてしまう程度に辿り着くのが(当時としては)やや困難な転勤先でしたが、だからこそ英語を身につける上ではもしかしたら最適だったのかもしれません。
なぜなら、ぶっちゃけ日本人がほとんど居ないような所だったからです。
界隈に住んでいる日本人家庭は両手で数えられる程度で、子供達の学校は同じでも学年は違うので会うことも話すこともあまり無く、現地での交流相手は必然的にクラスメート=現地のアメリカ人ばかりでした。
となると、自然と言語使用比率は日本語2:英語8ぐらい(肌感覚)になり、英語に触れている時間の方が圧倒的に長くなります。
そこからは言わずもがな、日本語が通じない中でとにかくクラスの皆との意思疎通を図りたい、ならばどれだけ躓こうとも間違えようとも英語を使いまくって吸収していくしかない。
別段特別なことではないんですが、改めて言葉にしてみるとこの辺りがやはり重要だったんだろうなと実感しています。
英語を覚えることよりも大事だったこと
「英語の習得」だけが目的ならばひたすら英語漬けになればいいだけの話ですが、そこで終わらなかったからこその今の自分が居ます。
自分にとって英語を学ぶことよりも大事だったのはきっと「日本語を忘れなかった」ことです。
特に幼少期から複数言語に触れると陥りがちなのが、触れている時間が長くなる言語に偏ってしまい、それ以外が疎かになることなのですが、不思議とというか、大変有難いことに自分の場合はそれがあまりありませんでした。
その点においての貢献度が高かったのは:
自身のモチベーション>家庭環境≧補習校
といった具合だったと思います。
最初二つはさておき、「補習校」とは何ぞやって話ですが。
海外子女・帰国子女の方には割と馴染みがあるかと思いますが、「海外に一時的に移住している日本人児童が日本語を維持するための補習を行う学校」を指します。なお正式名称は「〇〇日本語補習学校」「〇〇補習授業校」などと様々です。
小学校から高校まで通っていたんですが、補習校の授業が行われるのは原則土曜日だったため、週六日学校に通う生活を優に十年近く続けていました。通い始めた当初は「日本の子たちも土曜日に学校に行ってるんだから」などといった理屈で納得して(させて)いたのですが、次第に日本で週休二日制が採用されていったことで「あれ自分なんで週末半分犠牲にしてるの?」といった疑問が生まれたこともあります。
(何年前の話やねん、という突っ込みは本気で勘弁してください)
義務教育ではないものに対してこういった物言いはぶっちゃけ今だからこそできることですが、恐らく当時は長年続けてきた惰性感や何かしらの強迫観念で続けていたこととと思います(そんなこと通わせてくれた親に言った日には間違いなくぶっ飛ばされそうですが……)。
とはいえやはり自身のモチベーションが一番大きく働いていたことだったのでしょう。
帰国子女コンプレックス
じゃあそのモチベーションはどうやって維持したのか。
それ以前に、そもそも曲がりなりにも母国語である日本語を維持することにモチベーションもへったくれもあるのかという話ですが、逆にそれがなかったら今頃自分の日本語は結構ひどいことになっていたと思います。
分かりやすいエピソードとして、小学校の頃に一度帰国し、日本の学校に通っていた頃に「皆が当たり前のように知っている歌が歌えない」だとか「日本語にあると思いこんでいた単語が実は存在していなかったor日本語においては全く違う意味だった」といういわば逆カルチャーショックを受けたことがあります。そこから転じて、同じ日本人から「外国人」のレッテルを貼られかけた経験もあります。
一種の帰国子女あるある、というかコンプレックスをかなり明確な形で感じた体験は後にも先にもこの時だったと思います。
(まあ単純にこれ以降日本で学校通ってないからなんですが。)
20年近く前のことだというのに今でもこれほど記憶に残っているだけあって、よほど当時の自分の日本人としてのアイデンティティを揺さぶられる経験だったんだろうな、などと客観的に見れるのは本当に今でこそだと思います(ぶっちゃけこの辺は結構引きずってました)。が、きっとその経験があったからこそ「自分の日本語はどこかしら矯正の余地がある」のだと当時の自分も漠然と思うところがあったのでしょう。
僅か2年足らずで日本をまた離れることが決まった時、当時は3-4年程度で帰国できると聞いた自分が「補習校への編入だけでなく、できるだけ難易度が高い通信教育も受講したい」などと無駄に意識の高いことを宣いながらも前者はともかく後者はほぼ触ることがなかった辺り、モチベーションにも限界はあったのでしょう。とはいえ、「日本語を維持すること」への意識は当時小学校中学年の自分としてもそれなりに持っていたようです。
大きすぎるモチベーション
日本語維持への意識を更に後押ししてくれたのは「親が英語を話せない(話さない)」ことでした。
よっしー。個人の海外(北米)在住年数は25年をぶっちぎっており、恐らく家族の中でも群を抜いて長いはずなんですが、とはいえ家族の在外年数も優に二桁は行っており、且つそのほとんどが英語圏での滞在になります。
にもかかわらず、母が有していたのは本当に必要最小限の、それこそスーパー行って「ハニーハム100gください」が言える程度の英語力で、普段の生活においては基本的に英語が達者になった子供達が応対するという状態でした。それこそ、中高生よっしー。が若干面倒がりながらも電話に出てはミセスの振りをしてしょーもない勧誘を華麗にお断りしたりしていました。
ただこれは、当人の言語力云々やモチベーションの話ではなく、「自分の日本語力が衰えてしまおうものなら、子供達の規範となりうる日本語を見せ続けることができなくなる」ことのリスク回避を意識した結果だったのです。
少なくとも自分が覚えている限りでは、渡米当初母はチューターを家に招いて英語の学習に励んでおり、渡加して間も無い頃には現地のカナディアン家庭との文化交流を行っていました。ですが、子供達の英語力がそれなりに養われてきたり、生活において慣れが出てきた段階でそれらにストップを掛けていました。
先述の通り、自分を取り巻くのは8割方英語環境であり、日本語を話せる環境は自宅と補習校ぐらいでした。そんな中、『正しい日本語』を話してくれるだけでなく、話し続けるよう促してくれる存在が身近に居続けてくれたことっていうのは、何でも無いことのように見えて実はとてつもなく貴重でした。
結局のところ、日本語が話せなくなってしまおうものなら肉親とのコミュニケーションが取れなくなってしまう、というシンプル且つあまりに大きなモチベーションが存在し続けたことで、自分は母国語を疎かにすることなく英語を習得し、結果今の語学力を維持できたことになります。
無論、母の主張は英語が話せないことへの言い訳だったのかもしれませんが、結果として子供達は今もどちらの言語においても不自由するどころかそれを武器にできるほどの語学力を維持できています。それもあって、少なくとも自分としてはこの母の主張を言葉通り受け止めて続けています。
それからの話。
言語は使っていないと衰える、はその後他の言語を勉強していた時に痛いほど感じたんですが、日本語と英語においては幼少期からかなりしっかりした土台を作り上げることができたお陰で、今やガッツリ通訳や翻訳のお仕事をしています。
今回のnoteで書き切れなかった紆余曲折も経てはいるんですが、とはいえその根底にあったのは環境に恵まれたことよりも、何かしらの形でモチベーションを維持し続けられたことなのだと今でこそ思っています。
与えられた機会や環境をどう活かすかは人それぞれですが、嫌々惰性的に続けてきた時期などもありつつ最終的には言語習得と維持をし続けることを選んだからこそ今の自分が居るんだろうなぁ、と思ったところで今度こそ〆ます。
早い話、モチベーションは本当に大事。