新導ライブ
前回記事から大分時間が経過してしまいましたが、創作における父親について考えるきっかけになったキャラクターについて紹介します。
「カードファイト! ヴァンガード」シリーズに登場する新導ライブというキャラクターです。
「ヴァンガード」シリーズは少々時系列等が複雑なのですが、ライブは「ヴァンガードG」の主人公である新導クロノの父親です。登場当初は死亡扱いだったのですが後に行方不明であることが判明し、紆余曲折を経て最終的にはクロノと再会しました。
「ヴァンガードG」だとライブは脇役なのですが、これの前日譚に当たる「新田新右衛門編」では主人公である新右衛門の師匠として登場してちゃんとカードゲームもします。
ところがこのシリーズでのライブは首を傾げてしまうような行動が随所に見られました。
高校生の新右衛門は亡くなった親戚夫妻の店を受け継いでいたのですが、そこに日比野エスカという界隈では有名な女社長が現れ、彼女が主催する三人一組で出場する大会で優勝しなければ店は彼女の傘下に入ることになってしまいました。
その店は新右衛門やライブの行き付けの店であり、まだ小学生なのに両親を失って消沈している戸倉ミサキのためにも何としても店を守り抜こうと新右衛門は奮闘します。
そのため新右衛門はライブを誘って大会に出場しようとしますが、ライブは新右衛門の戦術に未熟なところがあると指摘してそれが改善されなければ一緒に出場しないと言いました。
新右衛門はその話の中で戦術の未熟さを改善して、ライブは一緒に出場することになります。
ところが大会が始まると、ライブはなんと大会の解説席に座っていました。
ライブ曰く「お前たちだけで勝ち抜けなければ店を守ることなんてどの道出来ない」とのことです。
人数の不足分は不戦敗扱いになるため、新右衛門たちは一敗も許されないことになります。
新右衛門は納得が行かないものの、友人であるマーク・ホワイティングと協力して決勝まで辿り着きます。
正直に言うならば、見ていて腑に落ちない行動でした。
実は新右衛門には橘タツヤという友人がもう一人いて、実力は三人に比べて劣っていたもののチームに入っていれば不戦敗にはなりません。
元から参加する気がないのであればタツヤにチームの席を譲ればよかったわけですし、そもそも一度新右衛門を認めたのに戦わないというのは誠意の欠いた行動に見えます。
メタ的な話をしてしまうと、決勝戦の相手に「ヴァンガードG」でライブと因縁があるとされていた海津ルウガがいたためライブのチーム入りは必須だったのだと思います。
ルウガとライブを戦わせるための措置だったように思えますが、決勝戦までは省略されていたためやはりライブが決勝まで戦わないというのは腑に落ちません。
数年の時が経過し、大学生になった新右衛門たちはアジアサーキットと呼ばれる世界大会に出場します。
準決勝でライブとルウガは再び対峙するのですが、ライブは突然今までとは違うデッキを使い始めた上にルウガに手も足も出ずに負けてしまい、激昂したルウガは本来のデッキでの再戦を要求するもライブはそのまま控室に戻ります。
この一件でルウガはヴァンガードへの情熱を失って大会から立ち去ってしまい、新右衛門たちが残った二人を下すことで決勝へと駒を進めました。
その後新右衛門やマークは納得が行かずに詰め寄るもライブはのらりくらりと躱して、しかも決勝戦には出られなくなったと言い残して立ち去ってしまいます。
正直に申し上げれば、ライブの行動を見ていて唖然としました。
結論から先に言うとライブが突然新デッキを使ったのは、仕事仲間である明神リューズの依頼による彼のヴァンガードのユニットを召喚する実験の一環でした。惨敗したのもデッキが未完成だったからであり、ライブはおそらくこのデッキでは勝てないことが分かっていたと思います。
つまり敗北する前提で挑んだと思われ、新右衛門やマーク、ルウガに対して誠意を著しく掻いています。
ルウガは10年後も情熱を失って燻っていることが最終回で語られます。
厳密には異なるのですが、ルウガはそれから数年後にヴァンガードの世界から来たユニットに肉体を乗っ取られ、世界を滅ぼす力を持つ竜を復活させるための尖兵として暗躍することになります。
これだけ語ると荒唐無稽な話に思えますが、肉体を乗っ取られたルウガはクロノの友人の家で働く人たちを暴力で捻じ伏せた上で実体化させたユニットで家を破壊したり、最終的には世界が滅びかける大惨事に陥りました。
ルウガとチームメイトだった神崎ユウイチロウはユニットの支配を精神力で跳ね除けており、ユウイチロウと同程度の実力を持っていたルウガも情熱を失っていなければ跳ね除けることができたのではないか。
以上のことから、ライブはルウガが肉体を支配された遠因になっていると言えます。
その後、ライブが決勝戦に出られなくなったのはリューズの最終実験と日程が被ったためであると語られます。これを逃すと次に最終実験が行えるのは数年後であるからそちらを優先せざるを得ないとのことでした。
しかし、それは大会も同じです。
また決勝まで辿り着けるかも分からないし、そもそも同じメンバーで大会に出場できるとも限りません。それでもライブは大会と実験を天秤にかけて実験を選びました。
ここまでライブの行動は一貫して誠意を欠いている印象でしたが、ここに来て初めて「残酷な選択ができる」という違う印象を抱きます。
思い返してみれば、かつてルウガと二人でヴァンガードの頂点を掴もうとしていたものの結婚を機にルウガの反対を押し切ってヴァンガードを引退しており、それが語られたルウガとのファイトでは「ヴァンガード」と「平凡な生活」のどちらを取るかというのがクローズアップされていました。
そしてそれはリューズの実験の詳細が明かされたことで、より確信に至ります。
実は数年前(新右衛門が高校を卒業した直後辺り)にリューズの実験により召喚されたユニットにより、周辺一帯が焦土と化すような大惨事が起き、それによりタツヤの両親が命を喪っていることが発覚します。
リューズは召喚しようとしているユニットがこれほどの力を持っていることに狂喜しており、ライブはリューズを叱咤するものの最終的には実験に協力する道を選びました。
しかも実験にはクロノが持つ力が不可欠であり、リューズは勿論クロノを実験の一部へと組み込んでいました。
自分を師匠と慕う仲間の友人の両親を失うような事故を起こして尚、リューズの実験に協力し続け、しかも自分の息子を参加させるなど真っ当な人間性を持っているようには私には思えません。
それを知った新右衛門はリューズの実験を止めようとしますがライブが立ち塞がり、彼らはファイトによって己の進退を賭けることにします。そしてその最中にライブが実験に協力する理由が語られました。
それはユニットの力でクロノを出産した直後に亡くなった妻を蘇らせるためでした。
そしてライブは新右衛門に対し、ユニットの力があれば「ミサキの両親を生き返らせることができる」と勧誘し始めます。
しかし新右衛門はそれを否定し、初めてライブをファイトで下します。
ここに来て、ようやく新右衛門でライブに与えられた役割に気付くことができました。
新右衛門編は高校生の「新田新右衛門」が、お馴染みのカードショップの店長である「新田シン」へと成長する物語。
言い換えれば子供から大人に成長を描く物語です。
その過程にて、新導ライブは『大人はそれほど立派な存在ではない』ことを新右衛門に知らしめるために生まれた存在だったのではないでしょうか。
私の人生論になってしまいますが、大人は立派な存在ではありません。
私は20代後半であり大人と呼べる年齢には達していますが、内面的には成熟していると言えずとてもではありませんが立派な大人であると誇ることはできません。
小学生の頃に見た両親や学校の先生は立派で絶対に正しい存在に見えましたが、成長していくにつれてそうは見えなくなっていきます。
今でも両親のことは尊敬していますが、彼らが常に正しく絶対的な存在であるかと言えばそれは有り得ません。
でも、それでいいんです。
両親や学校の先生といった大人も一人の人間であり間違えることはあり、それは仕方がないことだと知ること。
それが大人になる第一歩なのではないかと私は考えています。
新右衛門が大学生という立場になって初めてライブに勝利できたのは、新右衛門が大人への第一歩を踏み出したからではないでしょうか。
ライブは最初は新右衛門の師匠として慕われていたものの、物語が進むごとに疑問符を浮かべる行動が増えていきました。新右衛門たちから怒りをぶつけられる描写も多かったことからおそらく意図的に描いていると思われます。
そして新右衛門とのファイト中、彼は「自分の妻やミサキの両親のような人間が死ぬクソみたいな現実」という言葉を使っており、今までライブは新右衛門やクロノに対して師匠や父親といった目上のものとしての言葉遣いを徹底していましたが、ここに来てそれが崩れたので非常に印象に残りました。
逆に店を奪おうとしていたエスカは最初期は嫌な人間のように見えましたが、実はミサキの両親と懇意であることが判明して彼女なりに店を守ろうとしていたことが判明し、それ以前からも人格者であるような描写が幾度も見られました。
彼女の言葉は厳しいながらも現実的であり、店を奪おうとしつつも新右衛門に最大限チャンスを与え続け、そのことから新右衛門もエスカが悪い人間ではないと気付いていました。
最終局面ではわけもわからず実験に協力させられているクロノを救助しようとしており、ライブとは正反対の立ち位置にいます。
ライブの役割が『大人はそれほど立派な存在ではない』なら、エスカの役割は『それでも大人は立派である』ことを知らしめるです。
矛盾しているように思えますが、大人は間違えることもあり正しいこともあり、その二面性を二人の人間に割り振ったのではないかと私は考えます。
似たような事例としては「ハリー・ポッター」が上げられます。
ハリーの父親であるジェームズ・ポッターは当初はハリーに英雄視されていたものの、やがて当時同級生だったセブルス・スネイプに対する悪質ないじめが発覚して一時期は幻滅されていたものの、最終的には再び父親を尊敬するようになります。
後に教師となったスネイプは当初はハリーに嫌悪されていたものの、生い立ちが判明していくにつれて評価は変わっていきます。
ジェームズにもスネイプにも良い面と悪い面があり、こちらは大人の二面性をより父親と教員という二人の人間に均等に割り振っていました。
このシリーズは最終的にハリーは大人へと成長して子供を授かっていることから、新右衛門編と同様に子供が大人へ成長する物語であると考えます。
以上が私が創作において父親という存在に与えられた役割の考察となります。
話が脱線してしまいましたが、遊戯王での父親像もそうであるようにやはり乗り越えるべき存在であることが多いのでしょう。
それが分かりやすい敵対であったり、立派な存在ではないことを知ることだったりするようです。
カードゲームではその結果を勝敗という形で分かりやすく描いてはいますが。