私の発見を発見する
このnoteは「私の発見」をテーマにしているアドベントカレンダーの13日目の記事です。
ここ数日はとても躁鬱の波がひどく、これを書いているいま現在は何ひとつとして気力が湧かずにただ漠然とした不安をすべての出来事に当て嵌め自己否定ができる材料を脳内で必死に探しているところである。
きっと一週間もしたら鬱は治り、そしてこの文章を読んだところで知らない人が書いたもののように感じるのだろう、という前置きをしておく。
私は31歳でロクに就労したことがない。不安障害から引きこもりの時代を過ごし、そして人と触れ合ってからは躁鬱の波にやられていた。バイト程度ならいくつかしたことはあるが、しかしいずれも長く続くことはない。何かを始めると最初はぼちぼち頑張るので周りからは褒められ期待されることもあるが、数カ月から半年の間に急に燃え尽きていなくなる。そんな最も誰からも信用されない人間になっていた。
ちょうどこの数年を頑張れるかどうかで、自分がこれからも福祉のお世話になるのか、あるいはそこから出ていわゆる経済的に自立できるのかが変わる、そんな分岐点にいると思っている。そして私の問題はとにかく継続すること。それだけだった。そんな中でこの一年間ずっとやっていたことがある。それはとある喫茶店で週に1,2回働くことだった。
喫茶店と言っても普通の喫茶店ではない。いまお世話になっている福祉施設が運営する喫茶店だ。作業所とも違い、限りなく労働に近いのだが、周りが私たちの特性をよく知っているのでフォローが手厚い。そしてフォローはしてくれるけれど、できる限り私たちの手で運営を任せてくれる。たとえば、メニューは何を出したいか、仕入れ先はどうするか、メニュー表や集客方法をどうするか、などは基本的に自分たちだけで考え行動していく。その福祉施設の利用者の数人がカフェメンバーとなり、この一年間は何度も会議を重ねつつ、全員が素人の喫茶店をなんとか盛り上げようとしていた。
喫茶店員の全員が素人で、飲食店経験者はいるものの珈琲すらほとんど淹れたことがなかった。それは福祉スタッフも同じだった。だから喫茶店を運営していくという意味では本当に全員が同じ位置にいた。去年の年末からプレオープンをし、準備にはあまり時間がなかったので最初は珈琲を蒸らすということの意味さえ理解できていない私たちが珈琲を淹れていた。基本メニューは珈琲とジュース、そしてホットサンドとケーキという簡易的なものだった。
そんな喫茶店を一年間やった。週に1,2回程度だから大した労働ではない。それでも私にとっては一年間一度も休まずにできたということが大きい。カフェ店員として入る日はもちろん、会議などもちゃんと経験できたことも嬉しかった。
そんな喫茶店員をやる中で、発見したことを書いていきたいと思う。
コーヒーを認知
今までもコーヒーのことは好きでよく飲んでいたが、普段飲むのは家ではインスタントコーヒー、外だとコンビニのコーヒーくらいだった。それで満足していたし、特に最近のコンビニコーヒーはとてもおいしく安いので、わざわざ喫茶店に行って飲みたいと思うこともなかったし、自分にはそんな味の違いなんてわからないと思っていた。
店員としてコーヒーを豆から淹れる。コーヒーを豆から淹れることは今までもしたことはあったが、しかし、以前まではそれに楽しさを感じることはあまりなかった。「自分のために淹れるのはあまりにめんどうだな……」と感じることはあった。それにそのとき淹れた珈琲を特別においしいとも感じなかった。
そしてそれは喫茶店をやりはじめた最初はそうだった。そこそこにちゃんとした豆を使って淹れていても、インスタントコーヒーよりはおいしいけど……くらいのコーヒーしか淹れることができなかった。提供している私がそんな感想を持っていたから、そんなコーヒーを500円で提供することに申し訳なささえ感じていた。そんなに変わらない味が、近くのコンビニに行けば120円で買える。そんな時代の中で、喫茶店でコーヒーを提供することの意味を考えることになった。
もちろん喫茶店でコーヒーを提供しても、それはコーヒーだけの提供にはならない。店内で一、二時間程度くつろぎ、友達や場合によっては店員と話し、充電だってできる。テイクアウトの場合も、人によってはコンビニの機械が淹れるより、目の前の人が作るということが大切だということだってあるだろう。だからコーヒーを提供するにしても、その味だけを価値として見出さなくていいことはわかっていた。
しかし、せっかくコーヒーを作るならちゃんと自分がおいしいと思えるものを出したい。一、二カ月経って店員業務に慣れたころ、そんな気持ちがふつふつと湧いてきた。
そこで、そもそもおいしいコーヒーってなんだろうと考える。それまで私はインスタントコーヒーかコンビニコーヒー、あるいはスタバみたいなチェーンのカフェでしかコーヒーを飲んだことがなかった。それでもぜんぜんおいしいと飲んでいたし、多いときには一日に三杯くらい飲むほどには好きだった。ただ、これが一番好きなコーヒーだ、というものはなく、わりと惰性で飲んでいたというのが本当のところだ。ただカフェインを欲していたのかもしれない。
そんなときにたまたま友達とある喫茶店に入った。自分たちが働いているカフェからかなり近くにあるところで、夫婦がやっている小さな店だった。 インスタなどを見るとわりと人気店で、店がこじんまりしているからか、大人数ではお断りと書いていた。基本的に一人か二人でしか利用できない。メニューは飲みものがわりと充実しており、コーヒーはもちろんキャラメルラテやほうじ茶ラテなど、甘い飲み物も多かった。デザートはティラミスが評判で、あとは餡バターサンドなど、いわゆる喫茶店のメニューだった。
とりあえず私はコーヒーを頼んだ。
「コーヒーを一つ」
「コーヒーはどんなのが好きですか?」
「……どんなの?」
「苦味が強いやつが好みとか、あるいは酸味が強いやつが好きとかあります?」
どうやらここでは三種類の豆を使っているようだった。深煎りと中煎りと浅煎り。きっとそのときの私は深煎りがどういうものかさえもわかっていなかったと思う。
実家で飲んでいたコーヒーが酸味が強かったことを思い出し、私は、
「酸味が強いやつが好きです」
と言った。すると私より少し年上の主人はわかりましたと言い、お水はセルフでお願いしますと伝えキッチンに戻った。
「いろんなコーヒーがあるんだね」
きっとその頃はまだ恋人だった女性が言った。うん、そうだね。でも私にはあんまり味の違いはわからない気がする。自虐にも聞こえるようなことを私は言っていたと思う。
しばらくしてコーヒーがきた。緑色のマグカップにそそがれたそれは、見た目では他と何ら変わらないコーヒーだった。一口飲んですぐにいつも飲んでいるコーヒーとの違いがわかったのは、それほどまでに味が違ったのか、あるいはおいしいとされる喫茶店で、飲む前からその違いを見極めようと自分の感性が繊細になっていたからなのか、わからないがとにかく最初の感想は、「おいしい」ではなく、「なんだこれ」という困惑に近いような感情だった。
「おいしい?」
「……いや、うん、きっとおいしいんだと思う」
私は戸惑いながらも、少しずつ、そのコーヒーを味わった。酸味は強かったが、しかしそれは上品に、コーヒーの奥底からじんと伝わってくるものだった。苦味ももちろんあるけれど、それは酸味を邪魔することなく、矛盾した表現かもしれないが、その苦味自体が同時に甘味でもあるような、異なった味わいが一口の中で複雑に混じり合っていた。
そんなコーヒーを飲んで、いったいどうやってこんなコーヒーを淹れているんだろうという疑問が湧いた。明らかにいつも自分が淹れるものとは違うコーヒー。私が淹れるものは、ただの苦味しか感じたことがなかった。最初は、豆がきっといいやつを使っているのだろうと思った。そこの喫茶店はお店で使っている豆が小売りで売ってあったので、とりあえずそれを100g買って帰った。
そしてその豆を使って家で淹れてみた。いま振り返って考えてみると、そのときの体験が一番私をコーヒーにハマさせることになったと思う。そのコーヒーは喫茶店で飲んだものとはまるで違い、まったく酸味を感じさせることもなく、ただ少しの苦味と熱さしか感じないような、いつも私が飲むコーヒーとそう変わらないものになっていた。
「……店で飲んだ豆とは違うのか?」
はじめは本当にそう考えた。三種類の豆があったし、買うものを間違えたのかもしれない。浅煎りと深煎りの違いもわかっていなかったが、しかし確かに店で飲んだものは浅煎りで、そして買ったものも浅煎りだった。どうやら豆は合っている。そうなると淹れ方の違いしかなくなるのだが、しかし私は自分が鈍感であるという信念が強く、淹れ方の違いが私にわかるはずがないと思い、その考え方にたどり着くにはもう少し時間が必要だった。
いままで飲んだことのないコーヒーを飲んで、同じ豆を使っているのに自分では再現できないコーヒーを飲んで、ぐっとコーヒーへの関心を私は高めていった。それからいろんなところでコーヒーを飲むようになり、私の中でコーヒーという概念は以前と比べてかなり複雑になっていった。今まではコーヒーはコーヒーでしかなく、そこに差異はなかった。コーヒーにも個性があり、ひとつひとつ違うものなんだというのはまさに発見であった。
コーヒーを淹れる
そういう発見を経て、私は働いている喫茶店だけでなく、自分の家で毎日コーヒーを淹れるようになる。はじめはカルディでいろんな豆を買って、豆の違いを確かめていった。そしてyoutubuでバリスタの人の動画を見て、基本的なコーヒーの淹れ方を学んでいった。
youtubuやネットで軽く調べてみてもらったらわかるが、コーヒーの淹れ方はプロによってもかなり異なる。ある人が絶対にしてはいけないということを、おすすめする人もいる。味なんて所詮は好みと言われたらそうなのかもしれない。ただ、コーヒー好きはやはりオタク気質の人が多いのか、いろんなコーヒーの淹れ方を検証する動画の中には、ただ味覚だけを頼りにするのではなく、TDSというコーヒーの抽出率を専用の機械で測ったりして、できるだけ数値化を試みようとしていたりする。
いまの私がとりあえずコーヒーを淹れるとき、だいたい4・6メソッドという方法を使っている。たとえば豆を20g使うとするとその15倍の300mlのお湯を使う。そしてその300mlのうちの4割、つまり120mlの淹れ方によって酸味と甘さを調節し、残りの6割である180mlの淹れ方でぜんたいの濃度を変えるという考え方の淹れ方だ。
これは誰でもコーヒーを簡単に淹れれるようにと考えられたもので、もちろんどんなコーヒーにもこの考え方が当てはまるわけではないのだろうが、しかしとりあえず淹れるときに便利なのでよく使っている。はじめて飲む豆の場合は、とりあえず私は最初の120mlは60ml/60mlで二回にして分けて淹れ、だいたい蒸らす時間は45秒にしている。そして後半の六割は60ml/60ml/60mlと三回に分けて淹れてみている。そしてその味を見て、最初の四割の割合を30ml/90mlにして淹れてみたり、あるいは後半の六割を三回に分けるのではなく、いきなり180ml淹れてみたりする。
この4・6メソッドでいろんな淹れ方をして、同じ豆を飲み比べてみると、おそらく誰にでも味の違いがはっきりとわかる。まずベーシックに60ml/60ml/60ml/60ml/60mlで淹れ、その後に極端な30ml/90ml/180ml/で淹れる。これで味の違いが出ない豆はない。もうほとんど違う飲み物になっていたりする。酸味の出方もそうだし、苦味の主張具合、下に残る雑味の具合も明らかに違う。
自分でコーヒーを淹れ、そして飲む。このコーヒーはどんな味だろうと感じる。そう、私はコーヒーを飲むときはできるだけ味覚に集中させている。飲んでいるのだからあたりまえなのかもしれないが、しかし今までの私はそんなことはしてなかったのだ。コーヒーはコーヒーであり、知っている味だから、その味をわざわざ味わおうとなんてしていなかった。
ある意味で、マインドフルネス思考における、レーズンをゆっくり味わうレッスンを思い出す。今年私がいろんな嫌なことに耐えられるようになったことのひとつに、辛いときでも毎日コーヒーを淹れ、そして味わおうとしたというこの行為が約に立っていたのではないかと思う。その瞬間だけはできるだけすべてを忘れ、いまここに集中できていたのかもしれない。
家で飲むときは手動のコーヒーミルでゴリゴリやる。手動だと一人前を作るのも少し時間がかかる。でも、この手間が気に入っている。お湯を沸かす。そしてペーパーリンスをし、コーヒー道具を温める。お湯の温度を測る。グラム数と時間を計りながら、淹れ方も少しずつ変えつつコーヒーを淹れる。漂ってくる匂い。朝の感じ。この丁寧な作業ひとつひとつが私の生活を支えてくれている。
もはやコーヒーを飲むこと自体はさほど重要ではなくなってきていた。この工程が自分の生活にとって大切だった。だから別に飲みたくないときは同居人に振る舞ったりする。
いつの間にかコーヒーを飲むことより、コーヒーを淹れることが楽しくなってきた。
自分の生活にコーヒーを淹れるという作業が入ってきた。たったこれだけのことで、生活がこんなにも豊かになるということ。今まで丁寧な暮らしみたいなものを馬鹿にしてきた私にとって、やや悔しいが認めざるをえない発見であった。
人に振る舞う
そして最後に、人に振る舞うということを書きたい。
喫茶店で働いているときは、もちろんお客さんにコーヒーやらホットサンドやらを作って提供することになる。小さい喫茶店だから、作ったあとはお客さんが食べたり飲んだりするところが嫌でも視界に入る。まず一口食べて、いったいどういう反応をするのか。あまり見ないようにしようとは思いつつも、つい気にしてしまう自分がいる。
どうせなら、よりおいしいものを出したい……。
自然なことなのだろうが、やはりそういう思いはどんどんと強くなっていき、だからこそコーヒーの淹れ方にもこだわるようになった。喫茶店で使っている豆を変えることはなかなか自分ではできないが、しかし細かいマニュアルは存在しなかったので、淹れ方ならばいくらでも工夫ができると思ったのだった。
時間をかけて作って、目の前の人に振る舞う。これはとても怖いことであり、とても楽しいことでもあった。シンプルなことだ。喜んでもらえると嬉しいし、微妙な反応をされると申し訳なくなってしまう。自分にできることは、できるだけおいしいものをつくるということだけ。
人に振る舞って、それが喜ばれたらどうしてあんなに嬉しいんだろう。それまであまり料理をする人間ではなかったから、人に振る舞うことなんてもちろんなかった。何かを振る舞いたいと思うこともなかった。
小さな喫茶店で、たいしてできることもないけれど、おいしいコーヒーを作り、そして居心地の良い場所になればいいと思い接客している。話しかけてくれる方とは話す。どこにでもある、小さな喫茶店。そこの店員をし始めて一番大きな変化は、人に振る舞うという行為自体が喜びであるということを知ったことだ。
自分ができることを淡々とこなす。コーヒーを淹れることなんて、別に誰にでもできることだ。時間をかけて丁寧に作業をこなしていく。特別なことはなにもできないし、技術は持ち合わせてない。自分が苦痛にならない程度にできることをする。時間と労力をかける。喜んでもらえたら嬉しいけど、喜んでもらえないからといって失望するわけでもない。なぜなら、振る舞えたこと自体がもうすでに歓びだから。
誰かに何かを与えることができるという状況自体がすでに幸せなことだということを発見した。
こんな感じでとりとめのない感じで書いた。きっとこれからもコーヒーについて書くことは多いだろう。来年はもっとこの人に振る舞うということを深掘りしていきたい。自分がこれからどういう道に行けるかわからないけど、とりあえずいま感じている歓びをもっと増やせるようにして生きていけないか模索していきたい。
来年もがんばろうね。