私の濃度
自然体ってなんだろう。
五年前よりは社会性が少しだけついた。もちろんまだ社会不適合者だけれど、それでも友達はできるようになったし、人と深い関係になることも多くなった。でも、最近はなんとなく自分のふるまいに疑問を持つことがよくある。なんとなくいい感じにイケてないのだ。不自然な感じがする。それが相手に伝わっているかはわからない。でも、直感で、いままでの自らのコミュニケーションのとり方を振り返るときがきている気がしている。
私は自然体でいれない。ただいるということができない。周りの目を気にしたり、この人たちにどう思われたいかばかりを考えている。目の前のことに集中できない。目の前の相手がいま何を考えて、何を感じているのか、という想像にはいかない。考えたところでわからないのはもちろんだが、それをするかしないかは大きな違いだ。あえて相手のことを想像しすぎない、というものではなく、私には相手の気持ちを考える、という選択肢があまりないのかもしれない。
いろいろと考えても空回りするだけなのは目に見えているが、その意識から、自分を外すことは大切かもしれない。自分がどう思われたいという気持ちをできるだけ取り除いて、目の前の人のことを純粋に考える。最近の私の文章は、こういうことばかり書いているのかもしれない。ただ、何かを純粋にしてみる。とても難しいことだ。自意識が生まれてしまった以上は無理なんじゃないかとさえ思う。
私というこの私にとっては不思議な存在。本当に不思議だ。これはいったいどういうことなんだろう。私は私としてしかあなたに会えない。触れることができない。感じられない。私にとってあなたとは、私とあなたの関係ということになる。私というフィルターを通してのあなた。それはもはやあなた自身ではない。そのことをすぐ忘れてしまう。
私の濃密度を変える。そんなことができたらいい。私の濃度はそのたびに変わる。自分のことしか考えていないときもあれば、限りなくあなた自身に近いものを感じれているときもある気がしている。グラデーションなのだろう。それはいったいどうすればコントロールできるのか。
未来というものに振り回されないことが大切かもしれない。それは過去にしてもそうだ。いまここに集中するということ。未来と過去は所詮はフィクションだ。私たちはいまここにしかいない。ただ、ここにいる。意味はない。生きていることに意味も価値もない。それを認識すること。
あなたのことはあなただって知らない。誰もしらない。そのことを私はあなたに伝えることができる。あなただって私に伝える。そこに温もりがある。お互いの知らないことを伝え合う。だから私たちは分裂している。複数で、よく集まる。そしてまた別れる。それを繰り返し死んでいく。
できるだけ、せっかく出会えたあなたとは仲良くいたいと思っている。だから私は私のことを大切にするために、私を殺すときだってある。私自身の濃度を変える。できるだけ自然と同化する。そんなことができたら、またこれからだってあなたと笑いあえるはずだ。