そうして私はサクラーになった
約20年前、私は日本を後にしました。駐在員として広州、そして香港で働きました。「駐在員」・・・男性であれば、大会社であれば、それは出世コース。栄転が約束された上でのボーナスステージ。
当時営業だった私は女性ではありながら、そうしたボーナスステージ満喫中の「男性駐在員」達を毎晩のように接待していました。(晩ごはんと二次会ね、誤解のないように言っておきますが)
一晩2時間ほどで、私の一か月分の給料が飛ぶような高級クラブで飲み、歌い、支払いました。
会員制の韓国クラブに行けば皆それぞれに「パートナー」と呼ばれる女性がついて男性たちを夢の世界へといざなってくれました。
香港事務所で起ち上げスタッフ兼営業として、正式に辞令を受けて着任したその晩、本社から社長と営業部長が出張で来ました。
社内出張だからご飯を食べて終わりだと思っていたのに、ご飯の後社長が「なんや、お前どっか店知らんのかい?」と言いました。
私はうちの事務所と隣り合わせで事務所を構えていた顧問会社の社長に電話して、どこかお店を教えて欲しいと言いました。
まだ私にとっても夜の香港は、そういう女性がついて接待してくれるお店など、勿論一軒だって知らなかった着任したての頃です。
それなのに、私はその顧問会社の社長に「君、営業なのにそういうお店の一軒も知らないなんて、営業失格だぞ。」と叱られました。
着任したてであっても、着任するまでに月一で香港には出て来ていましたから、その間にそういうお店を作って置かなかった事が手落ちだと呆れられました。
は?いや私、女ですけど?
女なのに営業だから男が喜ぶ店を知っとけと?
手配できるほど顔つないどけと?
・・・なんつー、男性的理論・・・
私は驚き呆れると同時に、営業としての業務もきちんとスタートしていない時期に「営業失格」と簡単に言われた事は理不尽だと思いつつも傷つきました。
バナナ畑しかない広州から出てきた私にとっては香港は夢の街でしたが、「眠らない街/不夜城・香港」は女性営業員の私にとっては、なかなか厳しい環境でした。
日本に帰れるのは、お盆と正月。実家に帰れるのは一年で10日余り。それを7年続けました。
私の辞令には期限が切ってなかったのです。
お盆に日本に帰る時は会社の健康診断を受けるのですが、色々な症状を医師に訴えると「それはパニック障害ですよ。咳が出るからといって、咳を治療しても何もならないんですよ、会社を辞めない限り」と会社の掛かりつけの医師に言われた事もありました。
「何言ってんだ、この医者?原因不明な症状は全部ストレスで片付けやがって💢」
そういう病名をかざしておきながら何の治療も服薬も診断書もなかったので、私自身それを認めようとは思いませんでした。
当時は「なんつー医者だ。医者のクセにちゃんと患者に向き合ってくれない」と感じて腹立だしい気持ちでした。
会社員を辞めた直接の原因は父の病気でしたが、父の病の再発がわかった頃私は、毎日地下鉄が無くなる1時過ぎまで残業し、タクシーで家に帰り、朝も起きれないのでタクシーで出勤するという状態がもう何か月も続いていました。気持ち的には「追い詰められている」と感じていました。
その頃に病院に行っていれば、もしかしたら何か名前がついたかもしれませんが、私は病院には行きませんでした。
会社を辞め、縛りがなくなって、日本と自由に行き来できるようになりました。私が会社を辞めたその年の暮れに父も亡くなり、母が抜け殻のようになりました。
それからです。
お盆と正月以外に更に「花見」という名目での帰国が増やしました。
一年に三回、帰国一回約1ヵ月。このままだと母の心まで壊れるんじゃないかと思って、母には「桜が見たいから」と言い訳がましく言って、長めの帰国をするようになりました。
そうして、海外に出てから約10年ぶりくらいで、お盆と正月の他に、桜の季節に帰国しました。
桜、桜、桜・・・
私は、桜の余りの美しさに衝撃を受けました。
日本にいた時は普通に毎年花見をしていました。普通にキレイだと思っていましたが、10年のブランクを空けて目にした桜は、その見逃した10年を激しく後悔するくらい素晴らしく、私は夢中で「桜たちをカメラに収め続けました。」
一本撮ってまた隣の一本、どの一本も咲き誇る桜はただ美しく、私は夢中でそれをとどめようとしました。
家の近所の公園に、朝となく昼となく、夜となく、飽きることなく毎日毎日通い、毎日毎日刻々と変わりゆくさまをカメラに撮り続けました。
一本たりとも撮り逃したくない、同じ木でも同じ瞬間はもう二度とないのだから。香港では桜は見れないのだから、「この一瞬」をできるだけ多く切り取って残したい、そう思いました。
青空の日は最高です。桜がまた格別に美しく引き立って見えます。目にするだけで心が躍ります。
こうして、私は当初「父との時間をちゃんと過ごしたいと思って会社を辞め、母との時間をもっと多く持ちたいと思って帰国の時間を増やしたつもり」が、逆にいい思いをしたのは私でした。
今思い返せば、父は私の壊れかけの心を救ってくれ、母と一緒に過ごす時間を作ってくれたようにさえ思えます。
圧倒的な美しさで咲き誇る桜が、何の未練もないかのように潔く散り落ちてしまう桜にいつも胸が詰まりそうになります。
そうして私は毎年、桜の時期に帰って来ては、飽きる事もなく公園に通い、ひたすら同じような写真を撮りまくるのです。
私は完全に「サクラー」ってヤツです。
安室ちゃんのファンを「アムラー」と呼ぶみたく(安室ちゃんはもう引退したのに、他にしっくりくる例えがぱっと思いつきません)桜にとりつかれたような自分は「サクラー」以外の何物でもないと思いました。
去年のみならず、今年も桜が見れないのは「サクラー」的には寂しい限りですが、私の帰りを待つ両親はもういないので諦めもつきます。
いつか年齢的に移動ができなくなる日が遅かれ早かれ来るとは思っていましたが、でもこんな外的要因で,しかもこんなに早く移動ができなくなる日が来たのは予想外でした。
願わくば自分が年に勝てなくなるまでは、何とかこれ以上邪魔が入りませんように。
ただ、美しい桜がまた見られますように。
お陰さまで。