移動の本当の意味
移動の本当の意味
最近、私は七十歳という節目に際して、とみにアイザック・アシモフの二万年後の銀河を舞台とした、私の誕生年に発表された『ファウンデーション』に幾度か触発され、いかんともしがたい誘惑の虜のせいで、それへのオマージュに心を注いで、『ファウンデーションの夢』という自己流対話編を書き上げました。その『ファウンデーションの夢』の第一部その9で、ロボット・ダニール・オリヴォーは、地球内から発して来た「光」をまともに受け、時空を超える能力を身につけ「不死の従僕」へと自分が変化したことに気が付き、人間社会、文明の「本当の意味」を知り得ます。
彼の再到達した地球が日本であったという想定です。
それには、ちょっと深い理由があります。いくら、あの有名なアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドが、『科学と近代世界』の結語に、「観念の移動」こそ人類の存在根拠だとしたら、「冒険志向」こそ未来を切り開く希望のテーゼとしたこと以上に、言質的実際の、空間的移動をもって、そん本質とすべきことは、過大に評価してもし足りないほど重要です。
そのダニール・オリヴォーは、自ら喪失させたはずの人類の奥深い知恵に、掘り返すほどに驚嘆を隠せない感慨に首を振るシーンがあります。
日本の美の究極を貧しくとも聡明な「紅皿」に見出だし、そこから銀河再生への構想が突如として与えられたのです。
縄文はその意味で、二重の意味を今に生きる私たち人間に突きつけています。大変大雑把にいえば、停滞はある面、日本の究極性を浮き彫りに出来た長所も見いだせますが(平安、鎌倉、江戸文化)、定住の意味は両義性があります。
中国の古代冥冥期文明は「夏」と言われますが、聡明な料理人「摯」は、自分の生い立ちが「伊水」の氾濫で流されて、拾われた身分であり、「商」(殷)の人たちの活発さと文字、そして移動できる乗り物(戦車)を目撃した時に新しい世界が訪れたことを悟ったのでした。いわば今日でいうところの科学技術、文明の意味、すなわち人間の知恵で外界を自由に思い描くようにコントロールできるという信念であり、その逆に人間は徹頭徹尾、自然界の一部でしかあり得ず、自然が一度牙を剥けば、そのひ弱な雛鳥の人間は、その猛威に屈しなくてはならないという峻厳な事実ということでもある、ということなのです。
世界で冠たる日本の縄文文明は「定住」で先駆けとなったわけですが、その定住の知恵は約十万年に亘るユーラシア大陸大移動の結果であり、それゆえに途中、前人類との混血、吸収によって他の現生人類との微妙な差違を生じた結果であったわけです。
その反面、かえって本来の「移動の民」の本質を見失う結果をももたらしてしまったのです。
はたして日本はどこに向かうのでしょうか?あの奇才、小松左京の「日本沈没」が、新たな日本像、日本人像を提示したことを改めて考えてみたいのです。故郷喪失ということが否が応でも、私たちに突き付けられている今日的挑戦です。
それでは、具体的に言って、何処に移動して行くのか。それは言わずと知れた地球の成層圏を越えた上部世界、「宇宙空間に広がる銀河」と言ったら、私たちはいまさら疑問に思うとしたら笑止千万です。
若い頃、私の取り組んでいた文献に、ホワイトヘッドの『科学と近代世界』がありました。「人類は樹上から平原へ、大陸から大陸へ、...移動を続けてきた。人間が移動を止めたとき、もはや生の向上を中止するであろう。身体の移動も重要であるが、人類の魂の冒険-思想の冒険、熱烈な感情の冒険、美的経験の冒険は、なおもっと偉大なものである。」
私が若いとき、岩波新書の歴史学者E・H・カーの名言は今でも、繰り返し、我が魂を揺さぶる至言には違いありまでせん。
「歴史とは歴史家と彼が見だした事実との相互作用の不断の過程であり、
現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。」
そこで、私たちは気が付きはじめておられるでしょう。過去を知ることは、必然、未来を切り開く知恵ともなり、現実逃避癖の日本人の気質を根底より揺り動す絶好のチャンス到来なのです。
『 歴史とは何か』(岩波新書1962年)E・H・カー著