中国もう一人英雄 楽毅 雑考
中国もう一人の英雄 楽毅 雑考
中国史には、数えきれない英雄が出てきて、読者の心を捕らえて放さないのですが、十二世紀の岳飛も面白いのですが、あの諸葛孔明に「我もなりたや燕の楽毅。」と歌わしめた人物が楽毅です。
紀元前286年、燕は他の四国連合を引き入れて斉の領土に深く侵入致します。城を抜くこと、70以上と申します。それも極めて短期間で。
私の拙い妄想から、次のように考えました。楽毅のその技能は、果たして、何処から会得したのであろうかと?
おそらくは、楽毅という人の強みは、「物事の裏」を考察する能力にたけていた、ということではないかと思うのです。というのは、彼自身も、本来は、平和、博愛主義者であって、当時、彼以前の秘密結社の技能集団「墨家」に大いに傾倒し、城壁都市を防御することを本命としたかったのでは。その技能の神髄を学ぶうちに、その逆関数にたどり着いた。
時代は、春秋時代の次の戦国七雄が競い合う弱肉強食の時代。楽毅は、墨家の守城の技というだけでは困難な時代となってしまっていると痛感していたと思われます。墨家の「逆関数」を駆使出来たのが、天才楽毅の出現になった、と読んでいます。
それと類比できる日本の歴史的大転換があります。日本では、中国大返しという事件です。戦国時代を終わらせた、三大奇人と呼んでも間違いないでしょう。秀吉、それを支えた竹中半兵衛、黒田官兵衛です。
半兵衛は、主君齋藤龍興の岐阜の稲葉山城をたったの十六人で乗っ取ったという稀有な経歴があります。
官兵衛は、かつて大河ドラマでお馴染みのように、何度も毛利の軍勢を姫路で迎え入れて、守り通しています。
秀吉の備中高松から急遽軍団を引き返すことによって、明智軍を蹴散らすことに成功しているのです。奇跡的な230キロの踏破。これもまた、「あの楽毅の如し」ではありませんか。大返しの段階では残念ながら半兵衛は一線からは脱落していましたが、官兵衛の凄さは盟友半兵衛の技能をもそれまでに吸収していたことでありましょうか。攻めの半兵衛、守りの官兵衛。両者のドラマを思い返す度に、「楽毅の如し」という台詞が浮かんで来ます。関ケ原の戦いの最中、九州では「もう一つの関ヶ原」という大いくさが官兵衛によって展開されております。彼らは、墨家や楽毅のように平和、博愛の人たちであったのです。
世はまたもやキナ臭くなってきているのは、悲しい限りです。
さて、人生の強みとは何でしょうか?
それもそれと同じです。回りの人にない特技が一つでもあればいいのです。自分の城一つで、生きる自信と進路も見えて来ます。ではどうしたら? 答は簡単です。でも多くの人は信じていません。短期間で一個の城主になれます。逡巡しなければ。あとは楽毅の如し、です。
yatcha john s.