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「吹替ディレクターのオシゴト」#102

「表紙で泣いたオシゴト」

2013年7月。
フィン(コーリー・モンテース)が亡くなった。
glee シーズン5の3話目は、フィン・ハドソンの追悼回。海外から届いたばかりの素材を初めてチェックした時もひとり号泣したが、その日本語吹替版の収録現場も、涙、涙、涙で溢れていた。
本国のキャスト&スタッフの思いを大切に届けなきゃ、とみんな必死だったと思う。

台本の表紙

本番収録の前の週、シーズン5・2話目の終わりに、3話の台本を配る。「お疲れ様でした!」と声をかけながら、一人ひとり台本を手渡すと、廊下の壁にもたれ掛かり泣き崩れるキャストが続いた。まだ台本の中身も、ましてや本編の映像も見ていないのに、表紙だけで涙するなんて。それほどみんなgleeの世界にどっぷりつかっていたし、フィンが大好きだった。

白地の台本の表紙に薄墨色で書かれたエピソードタイトルは『大好きだったフィンへ』
タイトルロゴにはフィンのシルエットがあしらわれ、裏表紙には彼がネタのようによく言っていた台詞も入れた。制作担当のOさんと何度も相談し、大事に作った台本だ。
後にも先にも、表紙で泣けるオシゴトはない。

お芝居ではないお芝居

本編をご覧になった方はお分かりのように、追悼回はリアルな悲しみに溢れている。仲間たちの歌も、台詞も、親たちの後悔も、恋人の悲しみも、「迫真の演技」なんて言葉ではとても言い表せない。
特に痩せ細ったレイチェルの姿は痛々しく、ドラマを超越したドラマが残酷なまでに映し出されていた。
はて、それをどう吹き替えるのか。

収録中はプロに徹して泣くまいと思っていたけど、無理な話だった。涙腺崩壊。心揺さぶられまくり、感情はぐちゃぐちゃ。鼻も目もドロドロ。
冒頭のカートのモノローグから、カートがカートの心の叫びを吐露していた。日本語で。
どう吹き替えるとか、そんなの愚問だった。役を演じるって究極こういうことなんだなと思い知らされた瞬間。最後まで、声優さんたちのナマの感情の昂ぶりをそのまま捉えたような収録だった。息づかいも、泣き声も、喚き声も。とにかく心揺さぶられまくった。
(あとは、実際に本編をご覧いただければ幸いである)

収録終わりに、声優さんたちが口を揃えてこんなことを言っていた。
「お芝居なのにお芝居じゃない、こんな経験は初めてでした」と。
全てを出し切り(涙や鼻水も)、フラフラになりながらレイチェルとサンタナ(&フィンの母)が肩を寄せ合い帰って行く後姿が、今でも忘れられない。
吹替版は、残念ながらオリジナルとは違う。全く違うと言っても良いだろう。
でも、だからこそ、オリジナルの撮影より短期間・短時間で、ギュッと、何かを凝縮して詰め込むしかない。時に台本の表紙で泣けるほどに、感情や想いをグッと高めてお芝居するのが、吹き替えのオシゴトなのだ。

肉声

レイチェルが「彼の声が今もハッキリ聞こえる。でもいつか忘れてしまうのが怖い」と気持ちを吐露する場面がある。きっとシリーズを通して観て下さっている方々も同じだろう。
そこで、字幕版ではテロップ処理になる翻訳者さん渾身の名(迷?)台詞を、日本語吹替版では特別にフィン役の声優さんの声で吹き替えることを許可していただいた。
だって、どうしても聞きたくて。救いが欲しくて。
そこには吹替版だけに許されるファンタジーがあった。

余談だが、あれから数年経っても、フィンの吹替声優を担当されたDさんの声をマイクを通して聞くと、どうしても涙ぐんでしまう。全然違うRPGの収録で、全然違う声でバトルボイスを収録しているのに、「ああ。フィンがいる!」と心と体が反応してしまうのだ。


☆次回予告#103「張らない美学のオシゴト」

フツーの日常会話ってどうすればいい?のお話。
次回もお楽しみに。ご機嫌よう。
(終わり)


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