かもめマシーン『俺が代』
今日は銀座の若山美術館のあるビルの屋上にて、かもめマシーン『俺が代』を観てきた。たまたま公演の情報が目に入ったので前日に大急ぎで予約しての観劇だった。全2回公演で、一回のキャパが30人くらいととても少なく、とはいえ、この人数で終わるのはどうなのかなと思い、レビューを書くことにした。
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昨年に引き続き、今年も「憲法」をテーマにした注目の作品が上演されることになった。昨年は、多摩1キロフェスティバルで上演された、ままごと『あたらしい憲法のはなし』。そして、今年はかもめマシーン『俺が代』。奇しくも、どちらも屋外での公演となった。とはいえ、この2つの作品は屋外というだけが共通点で、かたや東京の中でも田舎の多摩にあるホール近くの小さな池で夕方から夜に行われ、かたや銀座の雑居ビルの屋上でお昼に上演された。また「憲法」に対するアプローチも全くとまではいかないが、大きく異なる方向から考えていった作品となっている。
『あたらしい憲法のはなし』は今ある憲法の条文がなぜ必要になったのかについて、物語仕立てにしたものである。そういったアプローチ方法そのものについての是非はあるだろうが、このアプローチ方法を取ったのは上演の場(それは劇場の形態や必ずしも熱心な小劇場ファンだけがいるわけではないフェスティバル特有の客層)への意識がそうさせたのではないかと思う。この方法を取ったことで考えられる不満点は、日本の現在の憲法がこの作品で描いたような必要性に基づいたアプローチから作られたわけではないということになるだろう。つまり、そこには存在しなかったストーリーを勝手に生み出してしまうということの危うさがある。
一方の『俺が代』は徹底して憲法というテキストそのものが作品のベースとなっている。つまり、憲法というものがどのようなテキストの束、もしくはどのような単語を連ねることよって作られているのかにフォーカスした作品となっている。レビューを書こうといろいろと調べていたところ、既にこの作品のダイジェストが上がっていたので前半がどのようになっていたかは下記動画を見てもらうのが早い。
憲法の前文をとにかく声に出す。簡単に言えばそれだけなのだけれど、目で見て単語を理解すること、読んで理解すること、声に出すこと、その声を聞いて理解すること、それぞれの方法にそれぞれの印象の違いがあることが改めてわかる。それぞれの単語をどう読むべきかを考えて考えた結果、憲法というものが改めて様々な主語によって構成されていることを実感する。そして、そういった作りであるが故に、憲法というのは様々な解釈を生み出しうるテキストになっているということがヒシヒシと伝わってくる。一応、私、法学部出身なので解釈が様々に存在することなどは知識ベースで知ってはいたが、頭でなく身体で体感するというのは今までにない感じだった。そして、その後読み上げた憲法の条文の主語を全て「俺」に変えて再度読み上げるのだが、そうすると、割と不思議な言葉の関係性に気がつくという仕組みになっている。
後半は東京デスロック『Peace (at any cost?)』で用いていたようなコラージュ的な手法が用いられ、憲法にまつわる過去の演説によって展開していく。使われたのは、尾崎行雄と芦田均の演説の2つ。特に尾崎行雄の演説は、演じた清水穂奈美の言い回しも相まって、実際に聞いてみるとかなりエモーショナルで、これを作品の中盤に持ってきたことでそれまでの憲法の講義感漂う雰囲気を一気に変化させたのが印象的だった。
今作の稽古日誌がfacebook上にあがっていたが、今作は下記のことに尽きると思う。印象的な部分を引用する。
「憲法を読む」なんていうことは、義務教育を受けた人は大抵できけれども、俳優でなければそれを「言う」ことはできない。「憲法を言う」ということができれば、そのテキストに対する印象はガラリと変わるだろうと思う(現に、僕の憲法に対する印象はガラリと変わっている)。
https://www.facebook.com/hgwryt/posts/10209364060844229?pnref=story
決して「言う」ということのために作られたわけではない「憲法」のテキストと真摯に向かい合うことで、観客に対して今まで持っていなかった印象を持たせることに成功していると私は思う。また「憲法を言う」ということについて、必ずしも今回のかもめマシーン版が唯一無二の正解ではないことも伝わる。それはあの屋上で、清水穂奈美が演じるバージョンであればこういったパフォーマンスになるということであって、そのことは憲法というテキストが持ついくつかの読みを受け入れいていることにも繋がっているように思う。