坂本龍一論 : 坂本龍一年譜③ 23〜33歳
◾️1976年 23歳:
○大学院・音響研究科に進み、電子音楽、民族音楽を研究する。
○音響研究室のたくさんのシンセサイザーに触る。
○「運動としてのコンミューン=演奏家集団」を結成。
○小泉文夫の『民族音楽講座』に大きな影響を受ける(「高校時代から小泉文夫さんが大好きだから、芸大に入ったら絶対に小泉さんのゼミを取ろうって思ってた。彼は本当に1年の半分以上はフィールド・ワークしてたでしょ。それにすごく憧れてた。彼は語学の天才で、初めて行った場所でも2週間ぐらいでそこの言葉を覚えてしまう」坂本)
○大学院時代に、4曲のオーケストラ曲、数曲の合唱曲、歌曲、その他室内楽曲、器楽曲をつくる。「ヴァイオリン・ソナタ」「弦楽四重奏曲」、フルート、チェロ、ピアノによる人形劇のための音楽『モチモチの木』、オーケストラのための『コンポジション』『Polycircus』、ピアノ曲『Metaphonem』等がある(「オーケストラをなんか書かなくっちゃいけなくて、で、取りかかるんだけども、すぐ挫折しちゃうのよね。首尾一貫して、最後まで同じ論理で書くとかってのができなくて」坂本)。
○ピアニストが演奏しながら不思議な文章を読み上げ、「作者とは誰…」で終わる作品『…分散・境界・砂…』(1976年)が高橋アキに初演される。
○友部正人と酒場で出会い、彼のバックを務めたことからポップミュージックの世界に足を踏み入れる(初レコーディングをする。友部はフォーク・ロック界で日本のディランと言われるほど名が知られていた)。
○友部正人と半年ぐらい、日本中のライブハウスを回る。
○リリィ、山下達郎、大貫妙子、阿部薫らのセッションに参加(「信じられないくらい忙しかったけど、どうやって時間をつくってたんだろう。メチャクチャ遊んでたし、すごく元気だった。やっぱり若さっていうんだろうね」坂本)。
◾️1977年 25歳:
○大学院卒業後、大貫妙子、大瀧詠一、山下達郎ほかのレコーディングに参加。アレンジ、プロデュースなどを手掛ける。
◾️1978年 26歳:
○細野晴臣のソロアルバム『はらいそ』に収録されている「ファム・ファタール」のレコーディングセッションで、初めて細野晴臣、高橋幸宏、坂本の3人が顔を合わせる。
○10月25日、ファーストアルバム『千のナイフ』リリース(「昼間はスタジオミュージシャンやって、夜12時から朝まで自分のアルバムをつくって、また昼から他人のスタジオっていう繰り返しで、何ヶ月もかかった。寝なくても平気だった」坂本)。アルバムでは高橋悠治を招き「グラスホッパーズ」を共演する。
○アレンジャーとして忙しくなり始める(「彼のキーボードのプレイと共に編曲の能力は他に類をみなかった」細野晴臣)。
○細野晴臣の誘いで、高橋幸宏と3人で Yellow Magic Orchestra(YMO)を結成(11月25日、ファーストアルバム『YELLOW MAGIC ORCHESTRA』がリリース)。
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