下水の整備(#26 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)
し尿処理(くみとりの記憶)
都市のインフラとしては、エネルギーや交通機関、行政サービスなど様々なものがありますが、人が生きていくうえで欠くことができないものは言うまでもなく、上水道です。
上水道の整備に関しては、昭和20年代の神奈川ニュースでも取り上げられていますし、川崎市でも、量水計の盗難がニュース映画に取り上げられています。
しかし人口の集中と経済発展に従い、ごみ、し尿処理、そして環境汚染などの課題が顕在化していきます。これらについては、社会の課題の項で触れたいと思いますが、ここでは特にインフラの整備として、し尿処理の記録について見ていきます。
政策ニュース映画には、その整備の記録が残されています。
し尿に関する問題提起は古く、都市への人口移動と貿易拡大に伴い、伝染病の流行が相次いで発生し、公衆衛生を改善するため、伝染病予防法(1897年)、海港検疫法(1899年)に次いで、汚物掃除法が旧下水道法と同時に制定されました。
汚物掃除法とは、明治33(1900)年に施行された日本最初の廃棄物に関する法律で、昭和5(1930)年の改正を経て、昭和29(1954)年に、「清掃法」の施行に伴い廃止されます。
政策課題として、し尿処理が提起されたのは、昭和5年(1930年)の「汚物掃除法」の改正が切っ掛けです。これにより、ごみとし尿の収集、処理は地方行政の内容と位置付けられることになりました。
し尿は、古くから貴重な有機肥料として農村で利用されていました。農家がし尿を肥料として引き取っている時代は、し尿の処理を考える必要はありませんでした。川崎の場合、北部には農村地帯が広がり、都市部、住宅地のし尿は下肥として利用されてきました。
しかし化学肥料の登場によって、汲み取り量と農村の需要の間のバランスが崩れて行きます。川崎の場合には、そこに人口の集中が付け加わっていると言っていいでしょう。
戦中から戦後の食糧不足時代には、し尿は下肥として利用されましたが、戦後は、都市部の復興需要に合わせた人口の集中により、し尿が農村に還元されなくなります。そのため、山林・河川への不法投棄や海洋投棄が急増したことから、余剰し尿の処理が必要となって行きました。
昭和24(1949)年頃から、特にし尿の衛生処理が戦前にも増して大きな課題となっていきます。
昭和25(1950)年には、都市部の深刻なし尿問題を解決するために、当時の経済安定本部資源調査会が「屎尿の資源科学的衛生処理勧告」を国に対して行い、し尿汚染軽減のための技術的な指針を示します。
これを受けて川崎市は、昭和25年に、当時の川崎市清掃局長の工藤庄八氏を中心に、真空式吸引車(バキューム車)を開発試作します。
厚生省と資源調査会の推薦もあり、このバキューム車の実用化が進んで行きます。
現在使用されているバキューム車は、昭和28年に実用化され、翌29年の清掃法の公布とともに全国の市町村に急速に普及して行きました。バキューム車によるくみとりの方式は、今でも地方では採用されています。
このように、し尿処理に関して、川崎市は先駆的な試みを行っており、戦後の早い時期から自覚的に都市部のインフラを整備してきたという面で、誇っていいことの一つとも言えるでしょう。
政策ニュース映画が取り上げるし尿処理は、このバキューム車の記録から始まります。
昭和27年5月22日 くみとりの機械化
ここでは昭和25年に試作されたバキューム車(真空吸上車)が本稼働している様子が映ります。併せて「衛生班」という組織による衛生指導や、地域の溝やごみ溜めなどの清掃作業なども行っていたことも記録されています。
子供が鼻を押させるシーンもありますが、川崎市でごみ処理行政に携わっていた方からは、し尿の匂い自体は、この後登場してくる化学製品のゴミに比べると大したものではないそうです。汲み取り式のトイレが当たり前で、下肥を畑に撒いていた時代には、街自体がし尿の臭いがしていたはずだという証言を得ています。
昭和31年5月16日 皆さんのあと始末
時代が下り、その4年後、高度成長期の入り口にあたる昭和31(1956)年の記録では、より進歩したゴミ処理とし尿処理が取り上げられています。
し尿処理に関しては、以下のようなナレーションがあります。
25年から使用されている真空式くみ取り自動車40台が活躍しています。こうして短時間に汲み上げてしまうため、毎月五万石も出る汚物もたちどころに処理されてしまい、町を汚したこんな風景もなることでしょう。こうして集められた汚物は、一部農村に肥料として配給されますが、半分以上は、川崎市の持つし尿運搬船2隻で、絶えず遠く海のかなたへと捨てられます。嫌われながらも毎日絶えず続けられる仕事。これに従事している人々の大変な努力があるのを私達は忘れてはなりません。
し尿の量を、「毎月五万石」と換算するのも興味深いところですが、「町を汚したこんな風景」として、肥桶や川崎市清掃課と書かれた大八車が映ります。
「一部農村に肥料として配給」しているほかに、「川崎市の持つし尿運搬船2隻で、絶えず遠く海のかなたへと捨てら」れるということです。
川崎市の場合、北部の農村地帯に、下肥のニーズはありましたが、南部の人口増加に対してはやはり供給過剰だったのでしょう。し尿の海洋投棄がなされていることが示されています。
し尿の海洋投棄は、昭和5年頃から一部の都市で行われ始めました。
当初は小規模なもので,品川沖やお台場沖に投棄していたようです。
昭和7年には、当時の東京市が海洋投棄を開始し、昭和10年に直営のし尿投棄船「むさしの丸」を建造します。
昭和12年にはし尿の投棄点が、房総半島突端の州崎沖に定められました。当時は1万石(約1,800kL)以上の量が投棄されていたとも言われています。
戦後、昭和25年頃から、再びし尿の海洋投棄が全国的に行われるようになって行きます。
し尿処理は陸上処理が国の方針でしたが、処理施設の建設が排出量に追いつかない都市では、海洋投棄が緊急避難的に行われていました。ここに記録されているのは、まさにその頃の映像で、海洋投棄船の姿がわかります。
いろいろ調べてみたのですが、各地の政策ニュース映画の中で、し尿の海洋投棄に関して取り上げたのは、おそらくこの川崎市政ニュースだけのようです。
平成23年版〈2011〉神奈川県環境科学センター研究報告第34号に収録されている、「神奈川県におけるし尿処理施設の変遷」によると、神奈川県の場合、昭和50年度のし尿処分量の内訳は、海洋投入(一部埋立処分)が51.0%で、し尿処理施設や下水道終末処理施設による処理は49.0%と、ほぼ半分を海洋投棄に依存していたことになっています。
市町村としては、横浜市、川崎市、横須賀市、真鶴町、湯河原町の5市町で、それぞれ神奈川区出田町、川崎区夜光町、日ノ出町、真鶴から海洋投入船が出航し、15海里以遠の海域である房総半島突端の州崎沖に破棄処分されていたそうです。
川崎市は、昭和51(1976)年に、し尿の海洋投棄を廃止します。
その時の記録が、以下にあります。
昭和51年4月27日 ごくろうさん清川丸
川崎市では、海の汚れを防ぐために、これまで行っていたし尿の海洋投棄を廃止し、去る3月31日、川崎区夜光町でその終幕記念式を行いました。清川丸から降り立った乗組員たちを、市長はじめ関係者が出迎え、長い間ご苦労様でしたと、その労をねぎらいました。四季を問わず、朝早くから12時間もかかる海上での仕事でした。海の男たちはこれから、新しい職場で働くことになります。現在、川崎市が収集しているし尿は、一日およそ1400キロリットル。清川丸での海洋投棄を中止したあとは、4月から加瀬清掃作業場など、市内三ヶ所で完全処理されています。
直接の切っ掛けは、同年に改正された「海洋汚染防止法」により、沿岸から50海里以遠の海域に破棄することになり、おそらく海洋投棄の負荷が大きくなってきたことにもあります。
ナレーションによると、海洋投棄は当時12時間も掛かっていたとのことで、国際的にも処理設備による方が適切であるという判断がなされたのでしょう。
通称ロンドン条約(廃棄物その他の物の投棄による海洋汚染の防止に関する条約)が採択されるのは、昭和47(1972)年のことです。
その後日本では、し尿等の海洋投棄処分量をゼロにすることにより海洋への環境負荷低減を図るという名目で、廃棄物処理法施行令の一部を改正する政令が平成14(2002)年に施行されます。そして5年間の適用猶予期間を経て、平成19(2007)年よりし尿等の海洋投入処分が全面禁止となりました。つい10年強ほど前のことです。
奇しくもこの年に、戦後を記録して来た最後のニュース映画が廃止されますが、それがまさにこの神奈川ニュースでした。
し尿の海洋投入処分が終了するまでの間、し尿処理場、施設の建設なども、刻々と記録されています。
こちらは設備の紹介なので、余り興味深いものではないかもしれません。実は政策ニュース映画では、こうした施設設備の開設は、定番のテーマです。
昭和33年11月25日 近代化する清掃作業
川崎市では、入江崎に工費1億5千万円の近代的な清掃所を完成しましたが…一日、約16万人分を浄化しています。従来のように海に捨てることもなくなり、衛生面に大きな貢献が期待されています。
昭和36年10月24日 開通した下水処理場
大師河原矢向町に工事を進めていた入江崎下水処理場は…台所の汚水や水洗便所によるし尿を、科学的・衛生的に完全に処理し、きれいな水と少量の灰にしてしまいます。現在、処理区域は市中心部の一部分ですが、…処理区域内に住んでいる方は、なるべく早く水洗便所に改造して清潔で快適な生活を送っていただきたいと、市では呼びかけています。
昭和45年5月26日 最新の清掃施設完成
川崎市の南西部、南加瀬にし尿処理施設「加瀬清掃作業場」がこのほど完成しました。この施設は…一日300キロリットルの処理能力を持っています。運ばれてきたし尿は土砂を取り除かれ、このあと高温・高圧にして反応棟に送られます。…このチタン鋼を使った最新の清掃施設の完成によって、川崎市はさらに住みよい町へ前進しました。
昭和2,30年代のものは、既に老朽化して取り壊されたものも多いのですが、こうしたし尿処理、下水関係は余り目にすることもないので、今との比較も難しいかもしれません。
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