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交通機関の整備(#21 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

インフラの整備・交通機関

現代社会においては公共交通は、その地域の経済の流れや文化までも規定していきます。
例えば首都圏周辺の近郊都市で言えば、単純に首都圏からの直線距離ではなく、公共交通での所要時間によって、地域の特性が似ていきます。公共交通網が行き渡っていない地方では、自動車中心の文化、経済が成立していくため、距離感や人々の行動パターンなどは、都市部とは大きく異なって行きます。
戦後は、都市部から、特に通勤客を対象とした公共交通機関が復興、整備されて行きます。バス、トロリーバス、市電、近郊鉄道など、身近な交通機関は、人々の暮らしを変え、街並みもそれに合わせて変わって行きました。
政策ニュース映画でまず目につくのは、こうした交通機関の変化でしょう。

川崎市の場合、戦時中に、川崎駅から臨海部の軍需工場への通勤輸送が、既存のバスやトラックでは限界に達してため、昭和19(1944)年10月14日に川崎駅から臨海部の間で、市電の運行が開始されます。川崎市の公営交通は、この川崎市電の運行が最初です。
市営バスは、1950年(昭和25年)12月15日より運行開始していましたが、さらに、昭和26(1951)年3月に、戦後初の都市トロリーバス新線として開業します。トロリーバスは前に触れましたが、ここでは川崎駅と市電、市バスについて、政策ニュース映画から見ていきます。

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民衆駅川崎駅(駅や街並みが大きく変わって行った)

政策ニュース映画は、基本的に行政ニュースなので、題材としては公共施設が中心です。川崎市政ニュース映画で言えば、川崎駅、川崎港、市庁舎、消防署などはしばしば取り上げられています。
なかでも川崎駅は、昭和20年代から平成に至るまで、しばしば題材となっています。さすがに昭和60年代のものは、カラーでもあり、ほぼ今の姿と変わらないとは思うのですが、30年以上過ぎていることを考えると、それなりに変化もあるようです。しかし逆に、昭和30年代前半の急激な変化のすごさがよりよくわかるとも言えるかもしれません。

元々川崎駅は、明治5(1872)年の7月に、日本で3番目の鉄道駅として開業します。戦争と復興を挟み、戦後川崎駅が大きく変化したのは、昭和34(1959)年4月の民衆駅としての開業でしょう。

民衆駅とは、駅舎の建設費用の一部を民間から募る代わりに、出資者のテナント利用を認めて、建設資金の調達をするという考え方で、昭和20年代の後半から、特に空襲によって荒廃した駅舎の再建に利用されました。国鉄初の民衆駅は、昭和25(1950)年4月に開業した東海道本線豊橋駅で、以後、全国で「民衆駅」が次々に登場します。 

調べてください: 他に民衆駅には、どこがあるでしょうか。

昭和34(1959)年に神奈川県内で最初の民衆駅として、川崎駅が建設されました。その様子も市政ニュース映画に記録されています。

昭和28年10月21日 伸びる市民の足
ますます人の往来が激しくなる川崎市では、交通問題が頭痛の種となっています。
昭和29年07月21日 市制三十周年を祝う川崎
毎日15万人もの旅客を扱う川崎駅の前には、5000坪の立派な広場が完成。工場港湾地帯へと伸びる2本の幹線道路の起点となって、近代都市としての面目をいかんなく発揮しています。
昭和32年10月21日 伸びる市民の足
人口が増えるに従って頭を悩ますのは、まず交通の問題です。特に工場街をバックに持つ川崎市は、朝夕の通勤ラッシュをさばく交通機関は一苦労です。

ここまでが、新設される前の川崎駅の姿が映るものです。
昭和28年と32年に、同じ「伸びる市民の足」というタイトルで、川崎駅を中心とした交通インフラの様子が記録されています。昭和29年のものは、川崎駅を高い場所から俯瞰して映したもので、駅舎と駅前広場の様子がはっきりわかります。駅舎は工場のようなそっけない建物で、川崎駅の文字が看板に手描きで書かれています。
駅前広場の構造は今と同じですが、駅前まで道路が繋がっています。しかし、恐ろしいほど自動車が少なく、バスを待っている様子の人が目立っています。
昭和28年と32年のものは、通勤時間の様子で、駅舎から多くの通勤客の人々が出てきます。駅前から市電やトロリー、バスなどに乗り換える姿が記録されており、ランドマークが多く映っているので、時代の変化を最も強く感じられるもののうちの一つです。
既に昭和28年の映像でも、駅前からの乗り換えラッシュが記録されていますが、4年後の昭和32年の映像の方は、人々の足が明らかに早くなっており、また混雑も激しくなっている様子です。
意外なことに、多くの人が手ぶらで、せいぜい新聞を持っている程度です。鞄を持っている人は余りいません。家には仕事は持ち帰らなかったのでしょう。

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昭和32年は、戦後10年以上を過ぎた、もはや戦後ではないとの流行語の翌年で、まだ東京タワーも建ってはいませんし、東京オリンピックの開催の決定ももう少し後です。
しかし川崎では、京浜工業地帯が多くの人々の職場として、モノづくり日本をけん引し始めてきたことが伺えます。ハットを被ってコートを着た男性会社員が映りますが、眼鏡をかけた方、混雑にうんざりしたような表情なのがわかります。その後ろに並ぶ、元気そうな若い女性もはっきり映っています。

リーマン

年長者の多くは戦争に徴用されてしまったわけですから、総じて、働いている人々が若々しく見えます。ここでバックに流れるマーチ風アップテンポの音楽も、高揚感を掻き立てます。川崎の政策ニュース映画の中でも、記録の価値と言う観点からは、最高傑作でしょう。

昭和33年10月28日付「建設譜」には、民衆駅として建設中の川崎駅の様子が記録されています。おそらくは市民の方々でも、中々見ることはできなかったでしょう。今の川崎駅に繋がる姿がわかります。

昭和33年10月28日 建設譜
表玄関として一日平均20万人の利用者を持つ、国鉄川崎駅。
地下1階、地上5階の豪華なビルは来春4月の完成を目指し着々と工事が進められています。

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ここから、新駅舎以降の映像になります。

昭和36年04月25日 65万人の玄関
4月1日の調査で人口65万人を突破した川崎市の玄関、川崎駅。一日の乗降客は約32万、東京鉄道管理局内では、新橋に次ぐ数字です。朝夕のラッシュアワーは、さしもの駅構内も続々と繰り出す人の波でいっぱいになります。…このため、駅前広場は人と車で込み合い、そのうえ、駅前を私鉄が縦断して電車の往復するたびに2か所の踏切が遮断されるため、いっそう、混雑に拍車をかけています。

昭和30年代の後半になると、駅舎そのものより、駅前の踏切の立体化や、地下道の開通など、周辺の交通インフラに整備が及んでいきます。

昭和37年01月23日 人口100万人都市を目指して
川崎駅前の混雑緩和のために計画された、明治製糖裏の道路工事は、現在急ピッチで進められていますが、これと並行して、府中県道のバイパスとなる計画道路の整備が行われています。
昭和37年11月27日 駅前広場に地下道開通
去る4月から駅前広場に工事を進めていた地下道がこのほど完成、11月9日に開通式が行われました。
昭和40年04月27日 立体化工事始まる 川崎駅前
京浜川崎駅の構内で、「川崎駅前付近踏切除却事業」の起工式が行われました。
昭和41年5月24日 川崎駅前の高架線開通
川崎駅前付近は、京浜急行の踏切が数多くあり、道路交通の混雑をまねいていました。この混雑を解消するため、県と川崎市、京浜急行の三社共同事業で、高架線による立体化工事が進められていましたが、このたび、全工事の75%が出来上がり、5月11日の始発から上り線が、21日の始発からは下り線が高架線に移り、駅前付近の4つの幹線道路の踏切がなくなりました。

昭和41年5月に、京浜急行の立体化工事が完了し、駅前の踏切が廃止されます。この時点で、現在の川崎駅に通じる交通設備がほぼ揃い、駅を中心としたインフラの整備が完成したと言えるでしょう。
昭和30年頃から始まる高度成長期の様々な変化を見ていくと、ほぼ昭和40年過ぎ頃に一応のピークを迎えていくことがわかります。やはり昭和39(1964)年の東京オリンピックが、首都圏における社会整備のトリガーだったということでしょう。

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この後、川崎駅に関する話題は、昭和40年代前半に、川崎市全体の整備の例として取り上げられる程度になって行き、昭和50年代は市政ニュースから消えていきます。以下、リンクを貼っておきます。
昭和41年12月27日 充実する都市施設
昭和43年12月24日 住みよい都市へ
明らかに映像に映る人々の様子が、昭和2,30年代とは違います。なかなか言葉では説明できませんが、時代の空気感のようなものは映像からわかるのではないかと思います。

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昭和60年代になって、地下街の整備などが始まり、駅前の工事の姿が映ります。既にカラーになっています。映っている街並みや人々の姿は、既に30年以上前のものですが、現在との違いは余り感じません。 
いかに昭和2,30年代の変化が大きかったかが、改めてわかります。こちらもリンクだけ貼ります。
昭和60年1月15日 地下街建設急ピッチ
昭和60年12月15日 来秋オープンへ! 川崎地下街「アゼリア」
昭和61年10月15日 川崎地下街「アゼリア」が誕生
平成7年1月15日 新春の川崎駅周辺
平成18年19月15日 川崎駅西口に新スポット誕生!

映像そのものは、こうした対象の変化を除いても、余り面白みを感じない、いかにも行政ニュースと言った感じのものになっています。

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それは、こうしたインフラに関しては、特に増えてきた高いビルを利用した俯瞰映像を多用するようになってきたことに起因しているように思えます。記録の対象である市民やその活動に対して、どこか距離を置いているような印象があるのは、こうした引きの映像の多さに象徴されていると言えるでしょう。
昭和2,30年代は、高いビルもなく、また撮影機材も質素なものが多かったために、被写体に対して出来る限り寄って行った映像が多く残されています。そのため、人々の暮らしが生々しく記録された映像が残ったのではないでしょうか。


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