川崎港(#25 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)
インフラの整備・川崎港(港湾工都の成立)
昭和27年9月25日 期待される川崎港
これは、川崎の市政ニュースの中でも最も古いものの一つです。
単に川崎港の状況を示したもので、見過ごしてしまいそうなのですが、実は大変貴重な記録です。
川崎港は昭和26年6月1日から川崎市の単独管理となり、現在、出入貨物は、年間819万トンに及ぶ膨大なもので、大阪、横浜、神戸と肩を並べる我が国の代表的な工業港となっています。
ナレーションのこの一文は、非常に深い意味を持っています。
2007年3月発行の専修大学都市政策研究センター年報第3号に、2006年12月22日に開催された「京浜臨海部における遊休地、未利用地の現状と今後」という講演会の記録があります。ネットでも公開されています。
講師は、川崎市総合企画局の高橋哲也氏という方です。筆者の経験では、特に高度成長期以降に関しては、元行政マンの方が多くの記憶をお持ちのケースが多いです。時代の移り変わりを最前線で見ておられる方が多いので、公務員さんの記憶は貴重です、聞きだすのも難しそうですが。
同記録に、こういう記述があります。
26年に港湾法というものが制定されました。これは連合国が日本に対して、日本を2度と戦争をさせないようにしようということで、内務省と軍部の解体をしたわけですが、併せて国に港を持たせないということをやりました。それが港湾法の制定で、港湾管理者には国がなれない、地方自治体しかなれないという形になりました。
港湾法を普段意識することは無いとは思いますが、戦後社会を理解するためにはかなり重要な法規です。
「港湾は国の利害に重大な関係を有する重要港湾とそれ以外の地方港湾とに分けられ,港湾管理者は港務局,港湾所在の地方公共団体または関係地方公共団体の組合とされる。重要港湾のうち国際海上輸送網の拠点として特に重要な港湾を特定重要港湾として指定する。」
「昭和26年6月1日から川崎市の単独管理」になったということの背後には、新憲法に準拠した大きな変化がありました。
終戦後、横浜市を中心に多くの社会設備が進駐軍に接収されましたが、当時の川崎市にとって、単独管理となった川崎港は、未来への希望だったのでしょう。
同講義録にもありますが、「横浜は歴史的経過も踏まえ商業港、業務機能が強いですが、川崎は生い立ちの経過から工業港としての色合いが非常に強い港湾となっております。」とのことで、確かに政策ニュースにも、港湾工都という表現が再三出てきます。
川崎港の整備は、川崎市政ニュースでは最も多く取り上げられており、川崎港そのものをテーマにしたものは、ざっと見ただけでも以下のようにたくさんあります。
タイトルを見るだけで、時代の変化が感じられませんか?
どれも興味深い記録なのですが、特にオリンピック前位までを見ると、明らかに昭和40年代(1965年以降)は、映像の空気感のようなものが違います。そこまでの時代にだけあった「何か」の正体を知りたいと思っています。
期待される川崎港(昭和27年9月25日)
建設進む川崎港(昭和30年6月15日)
拡張する川崎港(昭和32年10月16日)
大工業港めざして(昭和34年2月24日)
拡張すすむ川崎港(昭和34年2月24日)
中・高校生の川崎港見学(昭和37年7月24日)
のびゆく川崎港(昭和38年7月23日)
活況の川崎港(昭和40年1月26日)
川崎散歩 川崎港(昭和42年3月28日)
市民の港を建設(昭和47年11月28日)
建設すすむシビルポートアイランド(昭和51年2月24日)
船から見た川崎港(昭和51年6月22日)
帆船海王丸川崎港に(昭和56年12月15日)
わたしたちの川崎港(昭和62年7月15日)
誕生40周年を迎えた川崎港(平成3年11月15日)
市民の港を目指して 川崎港の紹介(平成12年8月15日)
余りに量が多いので、高度成長期のものを1本の動画にまとめてみました。
なお、川崎政策ニュース映画に関しては、川崎市民ミュージアム、川崎市市民文化局に再利用のご承諾を得ています。
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