盛り場(#30 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)
市民生活・盛り場
ここで主に分析の対象としている川崎市政ニュース映画は、主に、都市固有の事物や人々の営みが記録されています。
都市と言えば、特に最近では否定的な言葉が多く連想されますが、その多くが一般大衆、消費者が生まれてきた高度成長期に顕在化してきたものです。
「ルポ 川崎」(サイゾー,2017)の著者である磯部涼氏が、以下のように指摘しています。
川崎区は京浜工業地帯として、日中戦争から日本の軍需産業を支え、戦後も日本の経済を支えた街です。日雇い労働者の集まる「ドヤ街」もありますし、労働者のためにソープランドや競輪場などの施設が発達し、街を押さえる暴力団の事務所も存在します。コリアンタウンもあり、近年では東南アジアや南米からの流入者も多い。一方で、住民たちは長いあいだ公害にも悩まされ、またコリアンタウンはヘイト・スピーチを行うデモの標的になりました。
工業都市として、日本の近代化を支えてきた地域は、大小様々な製造業があったゆえに、大空襲の標的になり、さらに戦後多くの人々が職を求めて集まってきた結果、こうした都市固有の様々な「多様」な側面を持つようになっていきます。
再三述べてきたように、政策ニュース映画は、純然たる官制記録ではなく、市民と行政の間のミッシングリンクのような記録であるために、こうした雑多な都市のあり方が、長らく記録されています。
ここでは、風景としての「盛り場」を通して、人々の生活を見ていきます。盛り場とは、一般に、街中で飲食店や映画館などのレジャー施設が多数集まっている地区のことを指し、歓楽街やネオン街とも称されます。
川崎市政ニュースに記録されている最も古い盛り場の様子は、昭和27年(1952)年6月19日付、「新しい警察」です。民主警察とその体制を広報する内容で、再現フィルム風な劇仕立てになっています。
「蒲焼大沼」と書かれたのれんが下がる居酒屋風の店で、酔漢が食器を割る様子が映り110番通報で警察が飛んできます。なぜか通報するお店の女性が嬉しそうです。パトカーが、ジープなのが興味深いです。
蒲焼屋の他に寿司屋などが並ぶ通りで、商店街と言うよりは、時代的に特飲街風の風情です。女将がカウンターで聴取されていますが、背景に居酒屋の品書きが映ります。残念ながら読めません。その後、路上のベンチに寝転ぶ泥酔者の模様が映ります。
蒲焼の大沼はまだ存在しています。老舗のようなので、同じお店だと思われます。食べログに、「割烹大沼は昭和20年代前半の創業です。…かつては市役所側で間借していたり、8年ほど前には稲毛神社の近くで、別業態を展開、営業されていた事もあったそうです。」との記述がありました。
警察庁のWebによれば、
「日本の警察にパトカーが導入されたのは、昭和25年6月に当時自治体警察であった警視庁に初めて3台の無線警ら車が配置されたのが最初とされています。」だそうで、まだパトカー自体がそれほど行き渡っていなかったことが推定されます。
「パトカーの外観上の一番の特徴である白黒ツートンの塗装については、昭和23、4年頃、自治体警察の一部にジープ等の車両の全体を白色にしたものが見られた」とありますので、警察の記録としても貴重な映像でしょう。
以下、盛り場が映るものを時間順に眺めていきます。
昭和27年7月24日 川崎市政28周年
川崎市政28周年では、タイトルバックが盛り場の模様です。提灯には「平和通」とありますので、現在の平和通商店街の様子でしょう。「田村洋品店」の幟が判別できます。
昭和28年12月16日 買物は正しい目方で
ここでは、様々な小売商の店頭が映ります。肉屋さんでは、すき焼き用牛上肉150円と貼り紙が読めます。この回は、品物ごとの小売りの様子、特に計量の様子がよくわかります。
昭和29年6月16日 街を明るくする赤十字奉仕団
こちらは、小規模な商店街がタイトルバックです。酒という大きな看板や「藤田洋品店」といった文字が読めます。パチンコ屋もあるようです。
西小田とのことですが、正確な場所はよくわかりません。戦後すぐの闇市が発展したような佇まいで、川崎駅近辺以外では、まだまだこうした姿だったことが推定されます。
昭和29年7月21日 市政三十年を祝う川崎
市政の周年記念は、昭和2,30年代に掛けてしばしば取り上げられますが、この回では、万国旗が翻っている商店街の様子が映ります。駅の周辺のようですが、場所はわかりません。柳の並木が風情があります。
昭和30年1月26日 新春二題A、成人の日
旗日の商店街の様子です。パチンコという看板のほか、電柱の「天麩羅 サクラヰ」や、「尾池」という屋号の看板がわかります。
成人の日というテーマなので、若い人たちが商店街を歩く姿が映りますが、道路に紙屑が落ちていたり、未舗装の道路に水たまりがあるなど、時代を感じます。映画館の前のようなので、チッタの近辺かもしれません。
映画の看板が見えますが、「さいざんす二刀流」とあります。これは、昭和29(1954)年12月21日公開の映画で、トニー谷が主演のコメディです。
これは、昭和29(1954)年12月21日公開の映画で、トニー谷が主演のコメディです。
昭和30年11月16日 国体に湧く工都
他の地域でも同じような傾向がありますが、川崎では、東京オリンピックよりは、昭和30年に開催された第10回国民体育大会の方が、大きなイベントだったようで、政策ニュース映画でも何回か取り上げられています。
この回では、国体記念の仮装行列や自動車パレードなどの様子が取り上げられますが、そこに川崎銀座が映ります。
ビルの上から商店街の仮装行列を俯瞰した様子が映りますが、見物客の多さに驚きます。商店街もさぞ賑わったものと思われます。着ぐるみではなくハリボテを被った手作り風のものですが、当時の川崎市長金指氏の仮装も映ります。動きも今の遊園地のものとは、本質的に違っている感じです。
これらは動画ならではの情報と言えるでしょう。
昭和30年12月20日 計量まつり
同じ年の師走をテーマにしたこの映像では、川崎駅前の銀柳会が映ります。歳末大売り出しと描かれた大提灯が時代を感じさせますが、景気の良さをも忍ばせます。
「水之江」と書かれた幟が映りますが、当時あったレストランです。
男性は無帽ですが、まだ着物姿の女性も多く見れます。
「玉置商店」と書かれた暖簾と、「例年の通り、ちん餅承ります」の貼り紙も映ります。ここは、昭和の時代の名アナウンサーとして活躍した、玉置宏氏のご実家だと聞いています。
「ちん餅」という言葉は、おそらく死語でしょう。米穀通帳などがまだ有効だった、旧食管制度の遺物です。
昭和31年5月16日 皆さんのあと始末
この回は、ごみ処理がテーマです。駅近辺と思われますが、「たつみ美容室」「二葉」、などの看板が見えます。
ごみの収集車も盛り場の景観としては特徴的なものですが、この回は川崎市と描かれた木製の大八車から、収集用のパッカー車に変わるところがわかります。
まだオリンピック前なので、街角にコンクリートで作られたごみ箱が置かれており、そこからパッカー車へ投げ込む様子がわかります。
竹で編まれた笊でごみを掬っています。ごみ自体は、たばこの包装紙など紙ごみと、草などが主で、プラスチック系は見当たりません。
汲み取り車が映りますが、「美容室あづま」の前を通り、花輪の掲げられた鰻屋の店の前を収集車が通ります。その前を放し飼いの大きな犬がうろうろしているのも時代を感じさせます。
昭和31年11月21日 催しに賑わう文化の日
こちらも自動車パレードや仮装行列の模様です。この時代、川崎の駅周辺では、子供の日、文化の日、成人の日など、さまざまな記念日に、しばしばパレードや行列などが行われていたようです。
商店街の中を通る自動車パレードの様子が映りますが、相変わらず多くの人でにぎわっています。手作り風の仮装行列が、やはりどこか今と違った感じがします。
「大西薬局」という看板と、その向かいの「ヱビスヤ」という看板が判別できます。大西薬局さんは、現在でも川崎銀柳街でお店を構えていらっしゃいますので、おそらく同じお店だと思われます。
昭和32年5月15日 こどもの日
こちらも、銀柳会を上から俯瞰した様子が映ります。
デパートという看板が判読できます。
子供たちの旗行列に、「蒲焼わ可奈」という店が映ります。電柱にも店名が書かれています。
昭和34年12月22日 工都の師走
時代が下り、昭和34年の師走の模様で、やはり銀柳会の入口が映ります。提灯ではなく、大きな暖簾に歳末福引き大売出しと書いてあります。
歳末助け合い募金の人たちが映ります。主催が川労協(全川崎労働組合協議会)となっています。
この回は、商店街ではなく、デパートの中の歳末セールの模様が映ります。人々の姿や豊かな商品、きらびやかな売り場の様子などを見ると、戦後の復興段階は終わり、新たな高度成長期に向けて社会が変わりつつあることが垣間見れます。
昭和35年2月23日 近代化された清掃
さらに時代が下り、ごみ処理の話題が再び取り上げられます。
昭和31年のものと同じように、やはりパッカー車がごみを収集していく様子が映ります。
大きく「夏原酒場」と看板に描かれた店の前でのごみ収集の様子で、店の看板に飲み物の値段が描かれているのが読み取れます。
酒 1級100円 2級70円
ビール 麦酒50円 ビール150円
麦酒とビールの違いはよくわかりません。
昭和39年10月27日 青少年よ健やかに
盛り場の景観として、最も興味深いのがこの回かもしれません。テーマは、青少年の指導員の話ですが、昭和30年代は、今とは比べ物にならないくらい、少年犯罪が多かったという背景があります。
「犯罪白書」によると、少年による刑法犯の検挙人員の推移は、昭和26年の16万6,433人、昭和39年の23万8,830人、昭和58年の31万7,438人という三つの大きな波があったとされています。昭和59年以降は減少傾向にあり、平成29年は戦後最少の5万209人でした。
ただ戦後の混乱期やいわゆる浮浪児と呼ばれた子供たちの記録を見ると、敗戦によって倫理とか価値観が一度崩壊したという指摘もよくわかります。一概に、時代を比較はできないとは思いますが、決して昭和30年代を美化してはいけないということも明らかでしょう。
駅前の街並みは、既にビルも立ち並んでいます。場所はやはり銀柳会です。
パチンコ屋に指導員が入っていく様子が映りますが、店の横の立て看板に、トルコ嬢大募集とあります。
昭和30年代後半には、トルコ風呂は性風俗店として広く通用する言葉になっていました。横にビューティサロン、スチームバスといった言葉も描かれています。
店内のパチンコは、今とは違い椅子はなく立って打つ形式で、さらに1つづつ球を入れていく機械になっています。銀柳会の、「ムラタヤ」、「イトーヤ」という看板が見れます。
昭和40年以降、政策ニュース映画は、映像の解像度もあがり、扱われるテーマがインフラや設備などから、市民生活の支援やソフト面などに映っていきます。
またそのころから、行政課題も、復興、発展などから、交通戦争や公害など、明らかに次の段階に入っていきます。そのあたりから、盛り場の持つイメージが変わっていったように思えます。
昭和20年代前半の記録は、主に進駐軍関係者によってなされ、さらに朝鮮戦争の関係者によっても撮影されました。アメリカのアーカイブズ関係施設には、驚くほど鮮明に写された当時の敗戦国の記録が多く残っています。
また、Flickerなどの写真系のソーシャルメディアにも、公的機関には収蔵されていなかった、従軍経験者や軍属たちの写真がデジタル化されて整理されています。
おそらくは、そろそろ写真の持ち主、撮影者などが、鬼籍に入る頃で、残されたアルバムなどが、こうやって公開されていくのでしょう。
ここに示したのも、それらの写真で、昭和27年から29年に掛けて写されたものだとされていますが、撮影者の名前など詳細はわかっていません。
写真 flicker
当時はまだまだ日々の記録を写真に納めようという日本人はあまりいなかったようです。機材やフィルム自体が高価だったこともありますが、何より人々が日々生き延びることに、精いっぱいだったという事情もあったのでしょう。そのため、多くの日本の記録がアメリカにあるのは間違いない事実です。
ただしこの写真を見ていただければわかるように、あくまで「異国」の人の目線であって、観光客と同様のものと言えるでしょう。写っているものの意義などを理解し、誰かに伝える目的で写されたものではありません。言葉は悪いですが、物珍しさと記念写真でしょう。
市民のそのままの姿を、市民の目線で垣間見れるということも、政策ニュース映画の大きな価値であり、また楽しみ方でもあります。
昭和2,30年代の、どこかうす暗く、どことなく猥雑な盛り場でみんな何をしていたんだろう、どんなモノを食べ、どんな酒を飲み、どんな会話をしていたんだろう、そういう思いを、政策ニュース映画は掻き立ててくれます。
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