くたびれサラリーマン、自分らしい「文体」を考える。
今日は「文体」というものを考えてみたい。言いたいことは、『「文体」を見つけることは、「自分をみつける」ことになるのだ』ということである。みんなも一緒に文体探そうよ、というお誘いだ。
ブンとカラダで、文体とよむ。noteで文章を書くようになって、ぼんやりと揺れうごく霧を必死につかむような感覚で、自分の明滅する思考をとらえようとしている。いつも空振りだけれでも、それでも文字に起こすだけ、すこし重力をもつというか、思考に輪郭がついていくので、「書き出す」ということ自体がとても大事だな、と感じる。
そんな中、「どんな内容を書こう」というのも大事なのだけど、「どうやったらそれが伝わるか」ということもとても大切な気がする。WHATだけでなく、HOWも大事。WHATっていうのは、どこかで誰かが言った意見をコピー&ペースト、そして、そのままドラッグ&ドロップしてもそれっぽくなってしまうが、「どう書くか=文体」というので随分というか、かなり伝わり方が違うと思う。句読点の打ち方や、ひらがな・カタカナ・漢字の量のバランスで、人柄が伝わり、真意が伝わる。随分と印象が変わる。その昔、「見た目が9割」なんて話があったが、文体ってのは「知性の見た目」みたいなもんだなとも思うのです。
そう考えると、例えば三島由紀夫のような国語辞典が脳みそにぶち込まれた知性の塊が放つ、美しい文章を書けばいいってものでもない。それよりも自分の丈にあった、地が出る文体、というのが一番大切だと思う。また、その「型」を持っていれば、書くスピードも随分とあがるのではなかろうかとも思う。
いつもながら前置きが長いが、それではボクこと、やっさんは、どんな文体が好きなんだろうか。ふわりと頭に浮かぶ、小説家・エッセイスト・コラムニストを少し上げてみると、
・リリーフランキー
・村上春樹
・開高健
・ナンシー関
・スイスイ
(敬称略)
といったところだ。どれもクセというか特徴があって、ちょっと文章を読むだけで、「あ、この人の文章だな」というのがわかる文体。あとひらがなが多め。オノマトペや固有名詞などを多用。そんな人が多い気がする。
例えば、最近リリーフランキーの「東京タワー」をふと読み返したのだけど、このコスりまくられた「東京タワー」というランドマーク、ないしは、「東京」を語るにあたり、こんな語り口で始まる。
それはまるで、駒の芯のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さっている。
東京の中心に。日本の中心に。僕らの憧れの中心に。
(中略)
ぐるぐる、ぎりぎり、ボクらも回る。
外燈に集まる蚋みたく、ボクらはやって来た。
(中略)
弾き飛ばされる者。吸い込まれる者。放り出される者。目の回る者。
誰の力も及ばず、ただ、その力の向かう方角に引っ張られ、いずれかの運命を待つばかりだ。
(中略)
ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。
そして、ボクらは焼き尽くされる。引きずり込まれては叩き出される。
ボロボロになる。
(引用:東京タワー オカンとボクと、時々、オトン(リリーフランキー著)
この文体で、お湿りしたあなた。きっと、ボクと仲良くなれると思う。
東京タワーが真ん中にあって、それに集まるボクたち。それは虻。その行く末を、ライムのようにループさせる。そして、ぐるぐるを4回繰り返す。この文章は、エッセイの時のリリーさんのようなおふざけは感じない。東京への憧れの強烈なまばゆさと、結局は何物にも慣れない落胆が、すごく平たい文体でつづられる。オノマトペであり、比喩の多様。篠原涼子もびっくりの愛しさであり、せつなさである。
エッセイで言えば、開高健も大好きな作家である。僕は小説よりも、エッセイが好きだ。飛び切り洗練された文章なのに、汗臭ささが高校球児の部室並みの湿り気のある文体。
そして、村上春樹。言わずもがな。SNS上では「村上春樹風ショートストーリー」が展開され大喜利状態。これも日本で一番有名で、日本で一番簡単に見分けがつく文体であろう。
そして、果たして、やっさんの文体はどんなものなのか。
冒頭で、『「文体」を見つけることは、「自分をみつける」ことになるのだ』と申し上げた。しかし、ボクの文章は、まだまだ文体が身についていない。無味乾燥・無色透明。昭和の少女よろしく「あなた色に染めて」である。あるいは、number girlの「透明少女」というべきか。
しかし、これこそがボクがこのnoteを再開した理由でもある。自分らしい文体というものを身に着けるために、文字に起こしているのだ。思考を書き留めるだけでなく、自分さがしで迷走しながら、やっさんらしい文体を身に着けていく。その様が見れるnote。これだ、という文体を見つけるまでは、右往左往の日々であるが、しばしお付き合い願いたい。
・・・しかし、今日のnote自体が迷走してしまった感があるし、文体もブレブレ。文体のことを話しているってのに。
まあ、これも貴重な途中経過の記録として、このnoteという大きな海原の一粒の砂として、静かにひっそりと、片隅に残しておきたいと思う。
(了)