ルーシーの骨の60%vol.8とはいったいなんだったのか?
おさらい
今年に入って活動を開始したルーシーの骨の60%は、Crevasseを迎えてTokyoArtBookFairに参加します。横浜黄金町のレジデンシーの中で、ほとんどの観客は、これまでにか完成されたものを提案しない(できない?!)我々を”実験的”という言葉で片付けようとします。
はたして”実験的”すなわち”実験のようななにか”とは? それは作品なのか? を提示できればと思います。
Website
https://lucy8.yuichirohigashiji.com
開催概要
日時:2019年7月12日(金) 15:00 – 21:00 (プレビュー) 7月13日(土)、14日(日)、15日(月・祝) 11:00 – 19:00
会場:東京都現代美術館 東京都江東区三好4 -1- 1
実験的というキーワード
実験的とは、試みに行ってみるさま。「実験的な段階」とのこと。つまりは、試しの段階であり完成していないこと。また、アーティストは制作をする人であり、常に実験的である必要がある。
作品をつくる人はだれか?
作品の成立条件の話で、よく聞こえてくるフレーズで、鑑賞者がいないと作品は成立しないとか。まさにそれに同意する態度を今回はとっているつもりである。
作家が制作したなにかを鑑賞者が解釈して作品にする。
作家が制作したなにかを鑑賞者が解釈を生成して作品にする。
作家が制作したなにかを、さらに鑑賞者でなにかを生成して作品として取り扱う。
ここに出てきた登場人物は、作家と鑑賞者である。
作家が制作するなにかとは?
Volume.8のTABFでやる今回の問いである。この問いの答えは、言わずに”なにか”という名前をつけて、机に並べた。
これなんですか?って聞かれたら、”なにか”です。と答える。
”なにか”だから、本当は、それがなにかをわかるかもしれないけど、ここでは、”なにか”という仮説を置いていく。でも、本当はなにかわかったわけでもない。この問いを生成することがアーティストが制作する”なにか”であり、役割であることを改めて認識した。
鑑賞者で生成するなにか
鑑賞者が生成する?作家でないのに?!最初はそう思ったが、解釈とか想像するとかキーワードを使うと他人の作品の中で思考が進むことがある。もっとこうすればいいのに。とか、こうだったらほしいとか。。、
期待値の生成である。相対的にアレに比べてこうしたほうがよいということだか、鑑賞者でも生成できる。
作品とは?
制作とは問いの生成である。ここでは”なにか”という問いを生成し続けてきた。こうした制作物が作品にするのはいつ、だれが、どうやって実行するか?
だれかが作品するのか?
勝手に作品になっていくのか?
例えば、これは作品だと言ったら、その瞬間から作品になるし、その誰かが作品だと思ったその瞬間からその人の取り扱いの下に入る。もしかしたら、それを作品だと決めること自体かもしれない。
作品として取り扱うとは?
つまりは、解釈や意味を付与し名前をつけることかもしれない。その人にとっての解釈でいいし、その人とっての作品の定義であって取り扱いでいいと思う。
制作される1つの問いから、生成される解答(完成した作品)のバリエーションは多ければ多いほどよく、それを受容することから、つぎの制作がはじまる。
共犯者の生成
もはや、鑑賞者とか作家でなく、その問いに関わる人が制作者であり鑑賞者であり、その区別はできない。あえていうなら、その事件に関わった共犯者である。こうして共犯者をつくる為には、そこに関わることできる場を生成することがとても重要だと考える。それが今回のTABFである。
TABFのアーティストブースの存在
TABFは、各ブースをセクションごとに分けて取り扱っていることが特徴である。今回参加したZブースはアーティストブースであり、出版やパブリッシャとは別であり、アーティストが個人で活動する為のブースである。
つまり、アーティストの振る舞いをする為の専用ブースであると解釈した。
TABF全体みても販売目的でないブースは、我々以外にほとんどいなかったと思われる。
平たく言うと。。アーティストとして当然の態度
TABFというブックフェアという尺度からみると、販売することがメインになるが、そのブックフェア自体の目的を考えると、アートブックの繁栄と拡大と本を楽しむことであり、それが販売・購入だけで満たされるとは思えない。ただ実験的という奇抜なことをしているわけでなく、アーティストとして当然の態度をとっただけである。