1秒の定義から考える作品とは?
名古屋でお世話になっている写真家である安野さんの個展のオープニングイベントにゲストとして参加した。トークイベントにゲストとして参加するのは何度かあるが、光栄なことであると改めて認識した。
個展は、地元・名古屋にある、古民家といっても立派な空間で、江戸末期から明治初期までに何度か増築改築された広い空間だ。東海道から分岐して岐阜・長野へ抜ける美濃路の入口に位置する。かつては、蝋そくをつくってた場所のようで、2Fには材料を保存する為の蔵がある(今回の展示は1Fのみ)。
入ってすぐにみえる作品が、今回の個展でのメイン作品である。(正直、この1点で今回の展示をすべて語れるとおもったが、、)奥の空間には、それまでの軌跡やあたらしいアイデアが空間に散りばめられている。最深部の茶室に至るまでに、中庭を眺めつつ、日本家屋独特の軋み音を感じ、空間に身体を馴染ませてゆく。
蝋そくは燃え尽きる限られた時間と、そこに身体を馴染ませるのに必要な時間とのせめぎあいを想像しながら、1秒・1秒を進んでゆくように感じる世界である。
プラトンのりんごからわかる”イデア”
ここからは、トークの内容を抜粋して書いていく。冒頭からトップギアを入れてしまい難しい話になったので、配布されていたハンドアウトをベースにトークを進めることに。。。
リンゴの中のリンゴがイデアだと、また、リンゴそのものとリンゴという文字を比較することができるのは人の特徴であるという話からはじまった。(いきなり哲学。。。)
Wikipediaによると、プラトンは、イデアという言葉で、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。プラトンのいうイデアは幾何学的な図形の完全な姿がモデルともとれる。と記述がある。
肉眼みえないなにか、純粋なカタチ、真の姿、原型、、完全な姿。というような言葉が並ぶ。これもプラトンの解釈であり、イデアから派生したとされる(現在使用する)アイデアとは少し異なるようだ。
この言葉を聞いて思ったが、これは誰もがもっているもので、人によって場面によって、多様な言葉で表現されるものだと。。個人的にきになったのは、制作している作品のA=AA≠Aで言及している”オリジナル”との関連だ。
エッケ・ホモの修復事件-作品とは?
その前に今回、作家がどのようにイデアと対峙したかを聞くことができた。
2012年に「Ecce Homo」という壁画に起こったある絵画修復事件とイデアが接続したという。このエピソードが起点で、絵画を修復する、、修復する、、、描きかえる。。本当のキリストの姿はしってるか?という問いの生成である。
本当のキリストの姿はだれもしらない。なぜなら、人の寿命を考えると、キリストと会った人は今日まで生きられないから。
では、真のキリストの姿はどれ?
このイデアを通すことが、作品の本質、、つまり作品の真の姿に近づく手段であると作家は述べている。展示では、頭の中にある作品のイメージをできるだけ保持したまま、現実世界に具現化・視覚化すること試みている。
「Ecce Homo」はスペインのSanctuary of Mercy Churchという教会にある、
画家Elias Garcia Martinezが100年以上前に描いたイエスキリストのフレスコ壁画を、2012年、セシリア ヒメネスはこの「Ecce Homo」の修復を手がけた。彼女はアマチュアの風景画家であり、絵画修復については素人であったが、善意でその修復を行った。ところが完成した肖像画はイエス キリストとは思えないまるでサルの様な姿に変貌していた。
蝋燭によって定められる時間とは?
今回の展示計画は場所が決まった状態ではじまったという、、蝋燭をつくる場所であるということを起点に、作品の性質や背景を探索し、イデアに近づく作業のはじまりである。
蝋燭を火には時間に限りがある。時計代わりに使っていたという話もある。
蝋燭は60分で燃え尽きるという。。その60分が1秒を定義している重要な要素と接続して、時間の定義を考えるに至っただと推測する。。展示のタイトルは、その1秒の定義をつくるセシウム原子の60分の振動回数である。
時間といえば、安野さんの作品における重要なキーワードである。 つまり、安野さんのイデアには時間がある。時間を軸として、目の前に現れるイメージを回収をしている。さらに、制作がイメージづくりでないと作家はいう。イデアに近づくことが時間の本質にに近づくことである。
1つ1つを重ねること
行為を重ねる作業は、A=A A≠Aとの共通点である。A=A A≠Aは、(一回だけのコピー行為の信頼性をあげるために)2000という回数を重ねていく。それに対して、安野さんの作品は、イデア(つまり、時間の本質)に近づくために時間を重ねる。
一見異なるように行為を重ねる理由を記述したが、実は共通点も含まれるのでさらに掘り下げる。作品は、光量ヒストグラム分布の外側を切り落とすと述べていた。統計学に例えると、標準正規分布のようなカタチをしており、光量がすくない分布の外側をないことにしても、平均値に影響しないとしている。これは、A=A A≠Aにおいて2000回コピーを決める理由 (正規分布の外側を切り捨てても、コピーができたと言えるサンプル数※) と同じである。
A=A A≠Aは、一回のコピーを説明するための1999回のコピーである。2000の数字の根拠は、正規分布の外側を切り捨てても、コピーできたと言えるサンプル数である。このように統計学的に本当のコピーを数量でもって追い詰めるが、本当のコピーはみつからない。(その結果、その一枚はオリジナルとして取り扱われる。これは、コピーしてはじめてオリジナルを定義する必要である) ことから、コピーはオリジナルの生成と解釈できる。
安野さんの作品を通したA=AA≠Aの解釈
安野さんが、長時間露光で、1秒を重ねることで時間の本質というイデアに近づくとするならば、A=AA≠Aは、2000回をつかってオリジナルを生成し、一回のコピーという名前のイデアに信頼性を高めることで、近づいてるのかもしれない。